カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス(The Prince William Augustus, Duke of Cumberland、1721年4月15日 - 1765年10月31日)はイギリス王ジョージ2世の三男。ネルソン提督やジェームズ・ウルフらと共に、イギリスにおいて最も有名な軍指揮官の1人である。また、サラブレッドの始祖とされるヘロドやエクリプスの生産者としても知られている。
目次 |
[編集] 幼少期
ロンドンで生まれる。4歳でカンバーランド公の称号を与えられ、その後オルダニー男爵、トレメイトン子爵、ケニングトン伯爵、バークハムステッド侯爵と次々に叙されていった。幼少期から武勇にすぐれ、将来を嘱望されていた。ジョージ2世はウィリアム・オーガスタスを溺愛し、長男である王太子フレデリック・ルイス(ジョージ3世の父)以上の遺産を残そうと考えていたともいわれる。ハンプトン・コート宮殿のなかにウィリアムのために作られた部屋もあった。
[編集] 指揮官時代
海軍司令長官(Lord High Admiral)付き武官として1740年からジェンキンスの耳の戦争などの戦闘に参加した。しかし海軍はウィリアムの性分に合っておらず、ほどなく陸軍に転向した。ウィリアムは陸軍でまたたくうちに戦果を積み上げ、特にデッティンゲンの戦い(オーストリア継承戦争、1743年)では、自らも負傷しながらも華々しい戦果をあげ、一躍英雄となった。
ウィリアムは指揮官としてよりも、戦士としての能力に優れていた。フォントノアの戦いではサックス伯麾下のフランス軍に叩きのめされたが、ウィリアム自身は八面六臂の活躍で、さらに名を挙げた。翌年ジャコバイトの反乱がおこり本国に呼び戻され、カロドン・ミュアの戦いでジャコバイト軍を粉砕した。その後オーガスタス砦を築き、ジャコバイトを根こそぎ刈り取る掃討を始めた。その厳しさから「屠殺屋」(Butcher)と恐れられ、長きにわたってスコットランド人の怨恨の的となった。1747年、再び大陸にわたりオランダで指揮をとったが、またもサックス伯に敗れるなど精彩を欠いた。その後本国に帰り、名誉挽回の機会を与えられないまま、1765年世を去った。
[編集] 人物と伝記
ウィリアムは勇猛であるが思慮が足りず、血の気の多い人物であったと伝えられる。そのため指揮する部隊が小さいうちは武勲をかさねたが、総大将として戦闘に当たると、敵方の奸計にはまって敗走を余儀なくされる場面が多かった。このような短所もあってウィリアムは死後も名を残し、彼の伝記が1766年および1876年に出版された。さらに2005年には、「イギリス史上最悪の人物賞」(Worst Britons, BBC)の18世紀部門賞を「受賞」した。