ウェイン・レイニー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウェイン・レイニー(Wayne Rainey, 1960年10月23日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ダウニー出身の元モーターサイクル・ロードレーサーで、元チーム監督。
1980年代末から1990年代初めにかけて最も成功したロードレーサーの一人であり、1990年~1992年のロードレース世界選手権(WGP)500ccチャンピオン。ケビン・シュワンツとのライバル関係はよく知られ、「レイニーが、どんなレースの際でも、常にシュワンツとの差のみを表示させていた」との逸話も残るほど。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 少年期
建設作業員の父サンディ・レイニーと母アイラの間に三人兄弟の長男として生まれた。6歳の時に父がミニバイクを買い与えたことが、モータースポーツ経歴の始まりとなった。125ccの2ストヤマハでダートトラックレースに参戦し、15歳になる頃にはその名が知られるようになった。
[編集] WGPでの活躍
1983年、カワサキライダーとして国内メジャータイトルAMAスーパーバイク選手権のチャンピオンを獲得。1984年、前年限りで引退したケニー・ロバーツのチームからWGP250ccクラスに参戦するが、このときはチーム体制の不備もあって活躍の無いまま、翌年AMAスーパーバイクに戻る。1987年に2度目のチャンピオンを獲得(メーカーはホンダ)。
1988年、再びチーム・ロバーツに加入し、今度はWGP500ccクラスにフル参戦。イギリスGPで初優勝を達成する。翌1989年には早くもチャンピオン争いを演じるが、王者エディ・ローソンとの一騎打ちで痛恨の転倒を喫し、この年はランキング2位に甘んじる。しかし、ここから「安定して強いスタイル」を身につけ、1990年には他を圧倒しランキング2位のシュワンツに68ポイント差をつけて初タイトルを獲得する。
翌1991年もマイケル・ドゥーハンとの争いを制し、2年連続でタイトルを獲得。この2連覇は、1983年以来続いていた「チャンプとなったライダーのワークスは、翌年はライダーチャンピオンを獲得できない」というジンクスを打ち破ることにもなった。更に1992年にもドゥーハンを破り、ケニー・ロバーツ以来となる三年連続のタイトル獲得を果たすこととなる。連覇最後の年となったこの年は、ドゥーハンが負傷により欠場している際にポイント差を逆転、最終戦で僅か9ポイント差で決定という最も苦しんでのものだった。
1993年もレイニーはGPの中心となり、開幕から最大のライバルであるシュワンツと激しいチャンピオン争いを繰り広げていた。レイニーは第11戦チェコGPで優勝した時点でランキング2位のシュワンツに11ポイント差をつけており、4連覇は目前と考えられていた。しかし、ミザノ・サーキットで行われた第12戦イタリアGPにて、レイニーはトップ走行中に高速コーナーでハイサイドを起こし転倒。マシンから放り出された身体は頭部からグラベルに落下、第六頚椎損傷の重症を負ってしまう。これによって、胸から下の身体の自由を失って再起不能となり、キャリア絶頂期のなか突然の引退を余儀なくされた。
レイニー不在で迎えた第13戦アメリカGP。ドゥーハンはグリッド上でWAYNE WISH YOU WERE HERE(ウェイン、君がここにいてくれたなら・・・)というプラカードを掲げ、前年最後までチャンピオンを賭けて戦ったレイニーにエールを贈った。またランキング2位につけていたシュワンツは、順調にポイントを重ねレイニーを逆転、争うべきライバル不在の中でタイトルを獲得することとなる。だが、サーキット上でレイニーを打ち負かすことに至上の喜びを求め続けたシュワンツは、自身初のタイトルにもかかわらず「彼の怪我が治るならタイトルはいらない」と発言するほどに落ちこみ、以降モチベーションを低下させていく。
[編集] 引退後
レイニーは半身不随という境遇に挫けず不屈の意志でリハビリに励み、事故翌年の1994年にはマルボーロ・ヤマハ・チーム・レイニーを立ち上げ、車椅子でレース現場に復帰した。日本人では原田哲也や阿部典史が走ることとなった。その監督業も1998年をもって退任したが、レイニーに敬意を示すライダーは現在も多い。
[編集] スタイル
レイニーの勝ちパターンは典型的な先行逃げ切り型であり、オープニングラップで飛び出し、2位以下に圧倒的なタイム差で引き離して独走優勝というパターンが非常に多かった。ライバルのシュワンツが接近戦で強さを発揮したのとは対照的であり、それ故2人が繰り広げた名バトルの中でも、レイニーが最後に優勝したレースは少ない。このため、印象的にはシュワンツより地味にとられがちだが、後輪を大胆にスライドさせる力強いライディングは、速さと安定感が高次元で両立したものであった。
その妥協なきプロフェッショナル精神と、全力を尽くすスタイルは「ミスター100%」と形容された。1993年にはヤマハにマシンの問題点を訴えるため、ROCの市販車フレームを使用するという強硬手段を選んで周囲を驚かせた。
[編集] 戦歴
- 1983年 - AMAスーパーバイク選手権チャンピオン(カワサキ)
- 1984年 - ロードレース世界選手権GP250ランキング8位(ヤマハ)
- 1987年 - AMAスーパーバイク選手権チャンピオン(ホンダ)
- 1988年 - ロードレース世界選手権GP500ランキング3位(ラッキーストライク・ヤマハ・チーム・ロバーツ)
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝(ケビン・マギー)
- 1989年 - ロードレース世界選手権GP500ランキング2位(ラッキーストライク・ヤマハ・チーム・ロバーツ)
- 1990年 - ロードレース世界選手権GP500チャンピオン(マールボロ・ヤマハ・チーム・ロバーツ)
- 1991年 - ロードレース世界選手権GP500チャンピオン(マールボロ・ヤマハ・チーム・ロバーツ)
- 1992年 - ロードレース世界選手権GP500チャンピオン(マールボロ・ヤマハ・チーム・ロバーツ)
- 1993年 - ロードレース世界選手権GP500ランキング2位(マールボロ・ヤマハ・チーム・ロバーツ)※第12戦イタリアGPでの転倒で下半身不随となり、引退
[編集] 関連項目
|
|
|