鈴鹿8時間耐久ロードレース
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鈴鹿8時間耐久ロードレース(すずかはちじかんたいきゅうロードレース、略称:鈴鹿8耐、8耐)は、毎年夏に鈴鹿サーキットで開催される日本最大のオートバイレース。
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[編集] 概要
名前の通り8時間の耐久レースで、1978年から開催されている。 1980年からは世界耐久選手権レースの1戦として組み込まれ、折りしも80年代から90年代初頭における日本のバイク人口のピークと相まって大いに盛り上がった。その頃に比べ二輪車販売が半減した今もなおロードレース界における夏の風物詩として国内有数の集客を誇るモータースポーツイベントである。 1984年からは日本コカ・コーラ株式会社が冠スポンサーとなり現在に至る。
かつては、世界を目指す若手ライダーの登竜門的な存在であった。 ケビン・マギー、ケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハンらは鈴鹿8耐の活躍でWGPの切符をつかんだ。ワイン・ガードナーは無名時代の1981年に初出場でポールポジションを獲得したものの、すぐにはWGP参戦には結びつかなかった。そうして成長を遂げた彼らの海外における活躍と相前後し、WGPを退いて間もないケニー・ロバーツ (シニア)と全日本の第一人者・平忠彦によるコンビ結成(1985年)も大きな話題となり、以後国内4メーカーが威信を懸けてWGPやスーパーバイク世界選手権からトップライダーを送り込んだため、80年代中盤~90年代の8耐はさながら「レーシングライダー世界一決定戦」とも言うべき活況を呈していた。近年はMotoGP(WGP)との日程重複やレース自体の過酷さによる消耗を嫌って海外ライダーの参戦が減少傾向にあるものの、レギュレーションの変更などよる運営上の試行錯誤や全日本選手権等を戦う日本人のエース級ライダーによって以前に並ぶ熾烈な戦いが繰り広げられている。
観客自身がオートバイで来ることも多いことにもちなみ、決勝前日は二輪車をメインとした市内パレードが催される。また、全国的に暴走族が流行ったころは数千台規模の単車が集まり、警察が出動したこともあった。
世界選手権シリーズに昇格するまで(1979年以前)はレギュレーションが厳しくなかったため、ストックの状態で最大排気量1000ccを僅かに超えるホンダ・CBX1000やKZ1000のボアダウン改造車が出場することができた。
[編集] 歴史
[編集] 大会名
- 1978年~1979年 インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース
- 1980年~1983年 世界選手権シリーズ 鈴鹿8時間耐久オートバイレース
- 1984年~1987年 世界選手権シリーズ “コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久オートバイレース
- 1988年 世界耐久選手権シリーズ “コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース
- 1989年~1990年 FIM耐久カップシリーズ “コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース
- 1991年~1996年 FIM世界耐久選手権シリーズ “コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース
- 1997年 FIM世界耐久選手権シリーズ “スプライト クール”鈴鹿8時間耐久ロードレース
- 1998年~1999年 FIM世界耐久選手権シリーズ “スプライト”鈴鹿8時間耐久ロードレース
- 2000年~ FIM世界耐久選手権シリーズ “コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久ロードレース
[編集] 優勝者&優勝チーム・マシン
- 1978年 ウェス・クーリー/マイク・ボールドウィン(ヨシムラ:スズキGS1000R)
- 1979年 トニー・ハットン/マイク・コール(チームホンダ・オーストラリア:ホンダCB900F)
- 1980年 ウェス・クーリー/グレーム・クロスビー(ヨシムラR&D:スズキGS1000R)
- 1981年 マイク・ボールドウィン/デビッド・アルダナ(ホンダフランス:ホンダRS1000R)
- 1982年 飯嶋茂男/萩原紳治(ブルーへルメットMSC:ホンダCB900F)
- 1983年 エルブ・モアノー/リカルド・ユービン(スズキフランス:スズキGS1000R)
- 1984年 マイク・ボールドウィン/フレッド・マーケル(アメリカ・ホンダ:ホンダRS750R)
- 1985年 ワイン・ガードナー/徳野政樹(チームHRC:ホンダRVF750)
- 1986年 ワイン・ガードナー/ドミニク・サロン(チームHRC:ホンダRVF750)
- 1987年 マルチン・ヴィマー/ケビン・マギー(資生堂TECH21レーシングチーム・ヤマハ:ヤマハYZF750)
- 1988年 ケビン・マギー/ウェイン・レイニー(チーム・ラッキーストライク・ロバーツ・ヤマハ:ヤマハYZF750)
- 1989年 ドミニク・サロン/アレックス・ビエラ(Beamsホンダwithイクザワ:ホンダRVF750)
- 1990年 平忠彦/エディ・ローソン(資生堂TECH21レーシングチーム・ヤマハ:ヤマハYZF750)
- 1991年 ワイン・ガードナー/マイケル・ドゥーハン(OKIホンダ・レーシングチーム:ホンダRVF750)
- 1992年 ワイン・ガードナー/ダリル・ビーティー(OKIホンダ・レーシングチーム:ホンダRVF750)
- 1993年 スコット・ラッセル/アーロン・スライト(伊藤ハムレーシングカワサキ:カワサキZXR-7)
- 1994年 ダグ・ポーレン/アーロン・スライト(チームHRC:ホンダRVF/RC45)
- 1995年 アーロン・スライト/岡田忠之(チームHRC:ホンダRVF/RC45)
- 1996年 コーリン・エドワーズ/芳賀紀行(ヤマハ・レーシング・チーム・ロードレース:ヤマハYZF750)
- 1997年 伊藤真一/宇川徹(ホリプロ・ホンダ with HART:ホンダRVF/RC45)
- 1998年 伊藤真一/宇川徹(チーム・ラッキーストライク・ホンダ:ホンダRVF/RC45)
- 1999年 岡田忠之/アレッシャンドレ・バロス(チーム・ラッキーストライク・ホンダ:ホンダRVF/RC45)
- 2000年 宇川徹/加藤大治郎(チーム・キャビン・ホンダ:ホンダVTR1000SPW)
- 2001年 バレンティーノ・ロッシ/コーリン・エドワーズ/鎌田学(チーム・キャビン・ホンダ:ホンダVTR1000SPW)
- 2002年 加藤大治郎/コーリン・エドワーズ(チーム・キャビン・ホンダ:ホンダVTR1000SPW)
- 2003年 生見友希雄/鎌田学(チーム桜井ホンダ:ホンダVTR1000SPW)
- 2004年 宇川徹/井筒仁康(セブンスターホンダ7:ホンダCBR1000RRW)
- 2005年 清成龍一/宇川徹(セブンスターホンダ7:ホンダCBR1000RRW)
- 2006年 辻村猛/伊藤真一(F.C.C. TSR ZIP-FM Racing Team:ホンダCBR1000RR)
[編集] 優勝回数の記録
5回:宇川徹(97、98、00、04、05))
4回:ワイン・ガードナー(85、86、91、92))
3回:マイク・ボールドウィン(78、81、84)、アーロン・スライト(93、94、95)、コーリン・エドワーズ(96、01、02))、伊藤真一(97、98、06)
2回:ウエス・クーリー(78、80)、ドミニク・サロン(86、89)、ケビン・マギー(87、88)、岡田忠之(95、99)、加藤大治郎(00、02)、鎌田学(01、03))
1回:トニー・ハントン(79)、マイク・コール(79)、グレーム・クロスビー(80)、デビット・アルダナ(81)、飯嶋茂男(82)、萩原紳治(82)、エルブ・モアノー(83)、リカルド・ユービン(83)、フレッド・マーケル(84)、徳野政樹(85)、マーチン・ウイマー(87)、ウェイン・レイニー(88)、アレックス・ビエラ(89)、平忠彦(90)、エディー・ローソン(90)、マイケル・ドゥーハン(91)、ダリル・ビーティー(92)、スコット・ラッセル(93)、ダグ・ポーレン(94)、芳賀紀行(96)、アレックス・バロス(99)、バレンティーノ・ロッシ(01)、生見友希雄(03)、井筒仁康(04)、清成龍一(05)、辻村猛(06)
[編集] ポールポジションの記録
6回:伊藤真一(98、99、03、04、05、06)
5回:ワイン・ガードナー(81、84、86、87、89)BR/> 3回:グレーム・クロスビー(79、80、83)、マイケル・ドゥーハン(90、91、93))
1回:デビット・エムデ(78)、ピエール・E・サミン(82)、ケニー・ロバーツ(85)、ウェイン・レイニー(88)、武石伸也(92)、スコット・ラッセル(94)、アンソニー・ゴバード(95)、アーロン・スライト(96)、加藤大治郎(97)、芳賀紀行(00)梁明(01)、アレックス・バロス(02)
[編集] レギュレーションの変遷
- 1980年~1983年 TT-F1(4ストローク1000cc以下)
- 1984年~1993年 TT-F1(4ストローク750cc以下、2ストローク 500cc以下)
- 1994年~2003年 スーパーバイク(4ストローク4気筒750cc以下、3気筒900cc以下、2気筒1000cc以下)
- 2004年~ スーパーバイク(4ストローク1000cc以下)
[編集] 主なアクシデント
- 1982年 台風の接近でレースを6時間に短縮して開催。6時間後に振られた旗はチェッカーフラッグではなく赤旗であった。
- 1989年 126周目周回遅れのマシンを抜き損なったマイケル・ドゥーハン選手が周回遅れと接触し転倒。ドゥーハンは左手薬指と小指を切断する怪我をしてリタイアとなる。
- 1989年 8時間経過後、全車に対してチェッカーフラッグが振られる前に観客がコースへ乱入し、赤旗が提示されてしまった。このため、レース結果は1ラップ前でのコントロールライン通過順位となり、3位と4位の順位が入れ替わってしまい、最終ラップにヤマハのピーター・ゴダード/加藤信悟組を抜いたはずのカワサキの塚本昭一/前田忠士組が涙を呑む。その後、「全てのライダーにチェッカーを」を合言葉にマナーアップキャンペーンが始まった。
- 1994年 スタートから30分後に周回遅れの1台のマシンがオイルを吹き転倒して炎上。そこへトップグループが差しかかり、オイルに乗って数台が転倒し炎上する炎の中に突っ込んだ。このため赤旗中断となった。優勝候補の一角、辻本聡/加藤大治郎組は不運にもマシンが炎上し、さらにスペアマシンが無かったためリタイヤを余儀なくされた。また、岡田忠之/宇川徹組は転倒した宇川が負傷したため第3ライダーの匹田禎智で再スタートした。レースの中断があったものの観客の帰宅の交通機関の確保が優先され、19時30分に赤旗が振られてゴールとなった。
- 2000年 決勝レース中12時46分、山川守選手が130Rで転倒し、病院に収容後死亡した。享年47。鈴鹿8耐史上初の死亡事故となってしまった。
[編集] テレビ・インターネットによる中継
- 1985年にホンダランド(現在の鈴鹿サーキット)と飛鳥映像株式会社による公式記録ビデオが制作される。
- 1986年には上記2社により初の同時衛星中継が行われ多摩テックとホンダ青山本社に送られた。'85と'86をカップリングしたDVDが発売された。
- 1985年から1999年までは、テレビ東京系列の自動車情報番組「MOTORLAND」で毎年ダイジェスト版が放送されていた。
- 1986年から1988年まではTBSによる番組があった。
- 1989年にNHK-BSによる完全生放送が行われた。しかし、スポンサー企業名を放送できないなどの自主規制が行われた。
- NHK-BS、スカイスポーツを経て、1996年からはTBSが放送権を取得、2002年にはTBS系BSデジタル局BS-iで8時間完全生中継を行った。
- 2003年からはSKY PerfecTV!でのペイ・パー・ビュー番組として事前番組及び8時間完全生中継を実施、また鈴鹿サーキットの公式パートナー局であるテレビ大阪制作のダイジェスト番組がテレビ東京系列で放送されている。
- また、2002年からは鈴鹿サーキットが各種コンピュータ関連企業の協力を得て、独自のストリーミングによるインターネットライブ動画配信が行われている。2005年からYahoo!がインターネットライブ中継を実施。なお、2006年のライブ中継実況音声は、CS・ネット共にサーキットで実際に流れているものが使われた。
[編集] 鈴鹿8耐が登場する文学作品・映画・テレビドラマ等
[編集] 文学作品
- 冬のひまわり 五木寛之(1985年)、1984年の8耐を舞台とした禁じられた恋愛物語。グランドスタンドの1コーナー寄りには遠野麻子と森谷透の出会いの場所のプレートがある
[編集] 映画
- パッセンジャー 過ぎ去りし日々(1987年 日本)、劇中の主演の本田美奈子のコンサートシーンは1987年の8耐前夜祭で撮影
[編集] テレビドラマ等
- 風よ、鈴鹿へ(1988年 TBS)、1986年に初参戦したチーム紳助のドキュメンタリードラマ
- ガチンコ! バリバリ伝説(2001年 TBS)、ドキュメンタリー風バラエティー番組で素人を数カ月で鈴鹿8耐に参戦させる内容の番組。
[編集] 外部リンク
- 鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿サーキット公式サイト内)