ウラジーミル大公国
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ウラジーミル大公国(うらじーみるたいこうこく)は、ロシアを支配した大公国の一つ。現在のモスクワなどを含む地域で、北東ルーシに位置した。首府はウラジーミル。
1176年、時のキエフ公国の大公ユーリー・ドルゴルーキー(手長公)は、息子のフセヴォロド3世(大巣公)に己の旧領ウラジーミル・スズダリ公の位を与え、そこに国を建設させた。これがウラジーミル大公国の起源である。フセヴォロド3世は大公国の権力強化に専念し、1195年にはロシア諸公からウラジーミル大公として認められたのである。1212年、フセヴォロド3世は死去し、子のユーリー2世が後継した。
フセヴォロド3世の時代にキエフ大公とヴラジーミル大公は兼任される形になったと言ってもよかった。というのは、1202年にキエフ大公として即位したロマン・ムスチスラヴィチはドニエプル川周辺まで勢力を拡大するという勢威を見せたが、1205年にポーランド王国ピャスト朝の国王レシェック1世と戦って戦死してしまったからである。ちなみに、ボロディンのオペラ『イーゴリ公』として有名な「イーゴリ遠征物語」の主人公であるイーゴリ公が活躍したのは、フセヴォロド3世の時代である。これは、イーゴリ公とその2番目の妻ヤロスラブナの愛と嘆きがオペラにされていることで有名である。
ユーリー2世の時代である1238年、モンゴル帝国のバトゥを総司令官としたヨーロッパ遠征軍が侵攻して来た。ユーリー2世は諸公の兵力をかき集めてシチ河畔にて迎撃しようとしたが、逆にバトゥはその虚を突いて手薄になっていたウラジーミル大公国の首都ウラジーミルを攻撃して同地を占領し、ユーリー2世の一族はほとんど殺されてしまった。それを知ったユーリー2世は愕然とし、同年3月に無謀にもモンゴル軍に突撃して軍は全滅し、ユーリー2世も壮烈な戦死を遂げてしまう。ユーリー2世の死後、大公の位は弟のヤロスラフ2世が継ぎ、彼はモンゴル帝国に臣従することでウラジーミル公国の存続を図った。これにより、ロシアでは以後、ジョチ・ウルスの支配のもとで「タタールのくびき」と呼ばれる時代を迎える。
ヤロスラフ2世の子、アレクサンドル・ネフスキーは智勇に優れた名将であり、ジョチ・ウルスに臣従を誓う一方でドイツ騎士団やスウェーデン軍を破って大公国の権力・権威を拡大した。1263年、アレクサンドルが病死するとその弟に当たるヤロスラフ3世が継いだ。ヤロスラフ3世は兄の遺志を継いで富国強兵に励み、ウラジーミル大公国は大いに発展した。1271年、ヤロスラフ3世が死んで弟のヴァーシリーが後を継いだが、1276年に嗣子無くして没し、大公の位はアレクサンドルの系統に受け継がれることになった。当初はアレクサンドルの息子ドミトリー・アレクサンドロヴィチとアンドレイ・アレクサンドロヴィチが争い、その後も争いが長く続く中で、アレクサンドルの末子であるモスクワ公ダニール・アレクサンドロヴィチ(彼自身は大公にはならなかった)の血筋が主にモンゴルのハンから大公に任じられるようになっていく。そしてダニール公の息子ユーリー3世とイヴァン1世の時代にモスクワ大公国はロシア諸公の中でも強盛を誇る大国となったのである。ウラジーミル大公の位はモスクワ大公の位に兼任されることになったと考えていいかもしれない。