ウルシー環礁
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ウルシー環礁(ウルシーかんしょう, Ulithi Atoll)は、西太平洋カロリン諸島、ヤップ島の約100km東に位置する環礁である。ユリシー環礁とも表記される。40の小島から成り4.5平方キロメートルの陸地面積を持つ。長さ30km、幅15kmの潟を囲み、潟を含む広さは548平方キロメートルに及び、世界第4位の大きさとなる。ウルシー環礁はミクロネシア連邦ヤップ州の管理下にある。人の住む島はファラロップ、アソール、モグモグ、フェダライの4島であり、総人口は1980年時点で710人であった。ファラロップ島には空路で渡航可能。小さなリゾートホテルとガソリンスタンド、ヤップ州公立高校三校の内の一校がある。各島にはそれぞれ酋長がいるが、モグモグ島にはウルシー環礁全体の酋長がいる。
ウルシー潟には第二次世界大戦中に沈没した艦船が数隻ある。数隻からは燃料が漏れ出していたが、アメリカ海軍が2003年2月に除去作業を行った。近年の台風により暗礁のいくつかが破壊されたが、環礁は現在もよいフィッシング・ポイントおよびダイビング・スポットである。
島の住民は労働及び学業のために島を離れることが一般的なため、人口は一年の内に大きく変動する。高校の卒業式と言った祝祭が会った場合人口は増大する。結婚式や葬式があった場合、人口は二倍に増えることもある。
現在はいくつかの島で電気が使用できる。ビデオデッキと携帯電話はこの孤立した環礁に外界との接触をもたらすこととなった。
[編集] 歴史
環礁にいつ頃人類が到達したのかはわかっていない。やがてユリシー環礁は中央カロリン諸島の島々の例に漏れずヤップ島への臣従関係に入る(ヤップ帝国)。
ウルシー環礁に最初に到達したヨーロッパ人はポルトガルの探検家、ディエゴ・ダ・ローシャで、1526年のことであった。
第二次世界大戦中、ウルシー環礁はアメリカ海軍の重要な基地であった。日本軍は大戦初期に無線所と気象測候所を建設し、ウルシー潟を艦船の停泊地として使用したが、1944年になるとアメリカ海軍の航空母艦によって攻撃を受ける。ウルシー環礁はフィリピン、台湾、沖縄からほとんど等距離に位置したため、部隊集結地点の役割を果たした。
1944年9月23日、アメリカ陸軍の連隊が抵抗もなく上陸を果たし、数日後には大勢の設営部隊が続いて上陸した。調査船サムナー(USS Sumner, AGS-5)は潟を調査し、700隻の艦艇が停泊できることを報告した。その数カ月後、沖縄戦に備えた617隻の艦艇がウルシー環礁に集結した。
これに対して日本軍はすでに孤島と化したトラック島に新型偵察機「彩雲」を送り、しばしば偵察を行っている。 1945年3月11日 日本軍は本土から新型爆撃機「銀河」24機による特攻機を出撃させ攻撃した。銀河15機がウルシーに到達し奇襲は完全に成功した。しかしウルシーすでに夕闇が覆っており、1機が空母ランドルフに突入したものの空襲に驚いた米軍は灯火管制を実施、このため目標を視認できず珊瑚礁を敵艦と見間違えて突入したり低空で敵を探すうちに海面に突入したものが多かった。突入をあきらめた3機(隊長機含む)はヤップ島に不時着した。 空母ランドルフの被害は損傷にとどまった。
ファラロップ島の臨時滑走路は第二次世界大戦中に建設され、アメリカ軍によって使用された。大戦中島民はフェダライ島に移動させられ、残りの島々は泊地の艦艇や設備を支援するための基地として使用された。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Community-2.webtv.net/ebb26/ULITHI (note factual inconsistencies with Morison)
- Ulithi World War II Project
- Account of the March 11, 1945 kamikaze attack on Randolph.