フィリピン
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- フィリピン共和国
- Republika ng Pilipinas(タガログ語)
Republic of the Philippines(英語) -
(国旗) 国章 - 国の標語 : Maka-Diyos, Maka-Tao, Makakalikasan at Makabansa
(タガログ語: 神、国民、自然、国への愛情のために) - 国歌 : 最愛の地
-
公用語 フィリピノ語(国語)、英語 首都 マニラ 最大の都市 マニラ 大統領 グロリア・マカパガル・アロヨ 首相 なし 面積
- 総計
- 水面積率世界第70位
299,404km²
0.6%人口
- 総計(2005年)
- 人口密度世界第12位
87,857,473人
287人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
5兆3,186億フィリピン・ペソGDP(MER)
- 合計(2005年)世界第48位
925億ドルGDP(PPP)
- 合計(2005年)
- 1人当り世界第25位
4094億4500万ドル
4,770ドル独立
- 宣言
- 承認アメリカから
1898年6月12日
アメリカ合衆国から
1946年7月4日通貨 フィリピン・ペソ(PHP) 時間帯 UTC +8(DST: なし) ccTLD PH 国際電話番号 63
フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく)は、東南アジアの島国。首都はマニラ。フィリピンの東にはフィリピン海が、西には南シナ海が南にはセレベス海が広がる。日本とは、フィリピン海上で国境を接する。
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[編集] 国名
正式名称は、Republika ng Pilipinas (フィリピノ語: レプブリカ ナン ピリピーナス)、Republic of the Philippines (英語: リパブリク オブ ザ フィリピーンズ)。略称は、Pilipinas(フィリピノ語)、Philippines (英語)。
日本語表記による正式名称の訳は、フィリピン共和国、通称はフィリピンである。かつてはフイリッピンという表記もなされていた。漢字では、比律賓と表記され、比と略される。
国名は、1542年に、スペイン皇太子フェリペ2世の名から、フィリピナス諸島と名づけられたことに由来する。
[編集] 歴史
詳細はフィリピンの歴史を参照
多様な民族とカトリシズム フィリピン諸島で最も古い民族は25000~30000年前に移住してきたネグリト族。次に新石器文化を持った原始マレー。この後が、棚田水田農耕を持った古マレー。そして紀元前500年~紀元13世紀の間に移住してきたマレー系民族である。スペイン人来航直前の頃は中国や東南アジアとの交易で栄えイスラム教が広まったが、7000を超える諸島であるフィリピンでは統一した国家は形成されていなかった。1521年、セブ島にマガリャンイス(マゼラン)がヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達した。マゼランはこのとき、マクタン島の首長ラプラプに攻撃され戦死した。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航したミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を征服したのを皮切りに、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。しかし南部のミンダナオ島、スールー諸島、パラワン島では、イスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。
ヌエバ・エスパーニャの一部となったスペイン植民地時代にローマ・カトリックへの改宗が進み、領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)。6月12日、独立宣言がなされる。
米西戦争で独立を果たしたのもつかの間、1899年のパリ条約によりアメリカの統治および植民地化が始まる。アメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人が無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。その後フィリピン議会議員M・ケソンの尽力で、米国議会は1916年ジョーンズ法でフィリピンに自治を認めた。1934年米国議会はタイディングス・マクダフィー法で十年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾しフィリピン自治領に移行した。
しかし、第二次世界大戦中に日本が侵攻して激しい戦闘の末、日本軍が占領、1943年にラウレルを大統領として独立(第二共和国)。この戦争によって、マニラに20棟あった16世紀17世紀に作られたバロック様式の教会は2つを残して破壊され、当時、東洋で最も美しいといわれたヨーロッパ調の町並みは荒廃した。 1945年の日本敗戦に伴い米領に復帰。1946年、独立(第三共和国)。マルコス政権が長く続いたが、民衆の不満がありマルコス政権は崩壊した。
戦後、日本と同様極東アジアにおけるアメリカの重要な拠点であり米軍に基地を提供したが、米軍のアジア駐留軍縮小およびピナトゥボ火山の噴火にともなう基地機能の低下により、米軍はフィリピンから撤退した。毎年、多くのフィリピン人が渡米するなど親米国家である。
[編集] フィリピン紛争
- フィリピンの共産主義勢力は、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにフィリピン政府軍に制圧された。1969年、毛沢東思想による革命と体制変革をめざす、フィリピンの共産主義・毛沢東主義勢力は、新人民軍(NPA New Peoples Army)を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。新人民軍(NPA)は、フィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍は新人民軍(NPA)の武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、2007年4月現在、武力行使は継続中である。
- ミンダナオ地区にイスラム教で統治する自治区を作ることを目的としたモロ国民解放戦線(MNLF Moro National Liberation Front)は、1970年にフィレピン政府軍に対して武装闘争を開始し、モロ国民解放戦線(MNLF)と政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、モロ国民解放戦線(MNLF)はフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にモロ国民解放戦線(MNLF)のイスラム教による自治を受け入れ、現在はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。
- モロ・イスラム解放戦線(MILF Moro Islamic Liberation Front)は、モロ国民解放戦線(MNLF)がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年モロ国民解放戦線(MNLF)から分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、モロ・イスラム解放戦線(MILF)はフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年にエストラダ政権により破棄された。2003年、モロ・イスラム解放戦線(MILF)はアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年モロ・イスラム解放戦線(MILF)は停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開し、2007年4月現在、武力行使は継続中である。
- アブ・サヤフ・グループ(Abu Sayyaf Group)は、フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島、および、インドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、1990年にフィリピン政府に対して武装闘争を開始した。アブ・サヤフ・グループ(Abu Sayyaf Group)は、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返し、2000年以後は活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2007年4月現在、武力闘争を継続中である。
- フィリピン政府は新人民軍(NPA)、モロ・イスラム解放戦線(MILF)、アブ・サヤフ・グループ(Abu Sayyaf Group)の武力行使に対して、フィリピン軍とアメリカ軍による武力掃討とともに、武装勢力の指導者との対話・交渉による、和平協定の締結、武力紛争の終結、武装解除を目ざしているが、2007年4月現在武力紛争は継続中である。
[編集] 地理
ルソン島・ヴィサヤス諸島・ミンダナオ島などを中心に、大小合わせて7104の島々から構成されている。
スプラトリー諸島(南沙諸島)で領有権問題あり。
[編集] 政治
フィリピンの大統領は、国家元首であり、行政府の長である。大統領と副大統領は、同日に別枠で国民の直接選挙により選出される。任期は6年。
議会は、上院と下院の両院制(二院制)。上院は、24議席で任期6年。3年ごとに半数改選。下院は、憲法上は250議席以下と規定されているが、現在は214議席。20%を政党別の候補者リストから、残りを小選挙区制で選出。任期は3年。次の選挙は、2007年。アロヨ政権は現在の大統領制から議院内閣制へ、両院制議会から一院制へ移行する憲法改正を行う予定。
[編集] 地方と州
詳細はフィリピンの地方を参照
地方行政の最上位単位は、州と公認都市である。州と都市の数は、2003年12月時点で、州が79、公認都市が61。これらは、17の地方にグループ分けされる。
[編集] 経済
アメリカ合衆国による植民地政策では農業政策が失敗し、スペイン時代のプランテーション農業に基づく地主と小作人の関係が現在も続いている。この地主は全国に数十人おり、彼らの家族が国土の半分以上の土地を所有している。農村部では半数以上が一日1ドル以下の生活をする最貧困層である。これが南部イスラム地域では75パーセント以上が最貧困層である。
資源に乏しく、農業、軽工業、サービス、セブ島やボラカイ島などリゾートを中心とした観光業が主要な産業であるため、石油価格の変動を受けにくく、近年は外資の直接投資も増え始め経済通貨は比較的安定してきている。90年代のアジア通貨危機でもフィリピンはIMFの管理下にならなかった。フィリピンの経常収支は800万人に及ぶ海外在住労働者の送金によって支えられているといっても過言ではない。主要な貿易相手国はアメリカと日本である。1998年のアジア通貨危機のあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、タイ、インドネシア、大韓民国に比べると回復は早かった。南部イスラム勢力との和解成立後、ミンダナオ島にもアメリカなどからの直接投資が入り始めている。
[編集] 人口
2005年の人口は、87,857,473人。 国連等の推計では、2020年には1億人を超え、2030年には1億1千万人、2040年には1億2千万人、2050年には1億2千7百万人になるとされる。
[編集] 民族
住民は、マレー系が大部分(全体の90%程度)であるが、過去数百年で中国系やスペイン人との混血が進み、混血率は高い。地域によって混血率は違い、スペイン統治時代に重要な軍港であった地域、特にサンボアンガでは、スペイン人との混血率が高い。その他、山岳地帯のネグリト、ボントック、イフガオ、ミンダナオ島などの南部在住のモロ(イスラム教徒)などがいる。
宗教は、ローマ・カトリックが83%、プロテスタントが9%、イスラム教が5%、その他仏教などが3%である。外国人労働者が多いため、その他の混血の人も多い。その中でも、日本人、アメリカ人とフィリピン人のハーフの人が多い。
[編集] 華人
フィリピン華人の大部分は中国福建省南部の出身である。血統からいえば、約1千万人のフィリピン人は中国系であるが、明清時代からの古い華人が多く、現地化や混血が進んでいる。元大統領コラソン・アキノも福建華人の子孫である。現在でも中国語を話し、中国の習慣になれている者は60万人から80万人程度と推定される。
[編集] 言語
国語はフィリピノ語、公用語はフィリピノ語と英語であるが、母語として使われる言語は、合計172に及ぶ。これらは、すべてアウストロネシア語族に分類されるが、ほとんど意志の疎通が図れないほどの違いがある。他に使われる言語語には中国語(北京語や福建語)、スペイン植民地の歴史を反映して チャバカノ語(スペイン語とそのクレオール言語)、イスラム教徒の間で使われるアラビア語がある。
アメリカの植民地であったこともあり英語がかなり普及しているが、ナショナリズムの高まりと共に政府はフィリピンが一体となって発展していくためには国内全域で通用するフィリピンの共通言語が必要であるとし、タガログ語を基本としたフィリピノ語を作り普及に務めてきた。現行の1987年憲法は、フィリピノ語を国語と定めるとともに、「フィリピンの公用語はフィリピノ語と、法律による別の定めがあるまでは英語である。」と規定し、将来はフィリピノ語だけを唯一の公用語とすることを宣言した。
[編集] 文化
[編集] 世界遺産
フィリピン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件ある。詳細は、フィリピンの世界遺産を参照。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Araw ng Bagong Taon | |
1月1日(旧暦) | 旧正月 | Araw ng Bagong Taon ng mga Tsino | |
2月25日 | エドゥサ革命記念日 | Araw ng EDSA Revolution | コラソン・アキノが大統領に就任した日 |
復活祭直前の木曜日 | 聖木曜日 | Huwebes Santo | |
復活祭直前の金曜日 | 聖金曜日 | Biyernes Santo | |
4月第三日曜日 | 復活祭 | Linggo ng Pagkabuhay | |
4月9日 | バターン・デイ | Araw ng Kagitingan | バターン死の行進の日 |
5月1日 | メーデー | Araw ng Manggagawa | |
6月12日 | 独立記念日 | Araw ng Kalayaan | 革命軍の最高指導者アギナルド将軍が独立を宣言した日 |
8月21日 | ニノイ・アキノの日 | Araw ni Ninoy Aquino | ニノイ・アキノが暗殺された日 |
8月最終日曜日 | 英雄の日 | Araw ng mga Bayani | |
11月1日 | 万聖節 | Todos los Santos/Undas | |
ヒジュラ暦9月の最終日 | ラマダンの末 | End of Ramadan | |
11月30日 | ボニファシオの日 | Araw ni Andres Bonifacio | アンドレ・ボニファシオの誕生日 |
12月25日 | クリスマス | Araw ng Pasko/Notsebuwena | |
12月30日 | リサールの日 | Araw ni Jose Rizal | ホセ・リサールが処刑された日 |
12月31日 | 大晦日 | Medyanotse |
[編集] スポーツ
- 常夏の南国という気候的理由から、屋外スポーツはあまり人気がない。
- 国技のフィリピン武術(カリ、エスクリマ)や空手、柔道、ボクシングなどの武術が盛ん。
- 最も人気があるスポーツは、バスケットボール、ビリヤード、バドミントンなど。その他、チアリーディング、ボーリング、バレーボール、ソフトボール、ゴルフ、テニスなども人気がある。
- ボクシングやビリヤードは世界チャンピオンを多く輩出している。アジアの怪物といわれているボクサーマニー・パッキャオや、ビリヤードのエフレン・レイズなどはその世界では伝説的である。
- バスケットボールはアジアで初めてプロリーグを立ち上げ、国民的人気を誇る。また、世界選手権でもアジア最高位となる3位になった。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 鈴木静夫『物語フィリピンの歴史-盗まれた楽園と抵抗の500年』中央公論社。
- 大野拓司『現代フィリピンを知るための60章』明石書店。
- 五十嵐誠一『フィリピンの民主化と市民社会-移行・定着・発展の政治力学』成文堂
- 作本直行『アジアの民主化過程と法-フィリピン・タイ・インドネシアの比較』日本貿易振興会アジア経済研究所。
- 小野行雄『NGO主義でいこう-インド・フィリピン・インドネシアで開発を考える』藤原書店
- 津田守『自然災害と国際協力-フィリピン・ピナトゥボ大噴火と日本』新評論
- 早瀬晋三『歴史研究と地域研究のはざまで-フィリピン史で論文を書くとき』法政大学出版局
- 早瀬晋三『海域イスラーム社会の歴史-ミンダナオ・エスノヒストリー』岩波書店
- 関恒樹『海域世界の民族誌-フィリピン島嶼部における移動・生業・アイデンティティ』世界思想社
- 野村進『フィリピン新人民軍従軍記-ナショナリズムとテロリズム』講談社
- アンドリュー・ボイド『世界紛争地図』創元社。
- ダン・スミス『世界紛争軍事地図』ゆまに書房。
- 松井茂『世界紛争地図』新潮社。
- フランソワ・ジェレ『地図で読む現代戦争事典』河出書房新社。
- 日本経済新聞社『ベーシック-世界の紛争地図』日本経済新聞社。
- 古藤晃『世界の紛争ハンドブック』研究社。
- 毎日新聞社外信部『世界の紛争がよくわかる本』東京書籍。
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
[編集] フィリピンの武力紛争の出典
- 世界の国々 > アジア
-
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