回天
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回天(かいてん)とは、人間が魚雷に乗って直接操舵し、敵艦に体当たりして敵艦を沈めるという兵器。第二次世界大戦中、大日本帝国海軍で特攻兵器として用いられた。人間魚雷、的(てき)、〇六(マルロク)との別称もある。「回天」という名は、「天を回らし、戦局を逆転させる」という願いを込めて名づけられた。
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[編集] 概要
回天は、太平洋戦争開戦以前に甲標的搭乗員であった黒木博司大尉、仁科関夫中尉らが、日米の隔絶した工業力から、日米の艦隊決戦においては有人の水中兵器による敵艦隊撃滅以外に勝利はあり得ないと提唱したことにはじまる。しかし、海軍は当初生還の見込みの無い出撃はあり得ないとして考慮することすらせず、彼らは海軍内で孤立した。戦局が逼迫した1943年(昭和18年)、何度か上申し却下されるのを繰り返した後、1944年(昭和19年)8月正式に兵器として採用された。同年9月山口県の大津島に基地が設けられ、本格的な開発が始まった。回天は水上艦用の酸素魚雷(九三式三型魚雷)を改造したものである。九三式三型魚雷は、直径61センチ、重量2.8トン、炸薬量780キログラム、時速約100キロで疾走する無航跡魚雷であり、主に駆逐艦に搭載された。回天は、これを改造して、全長14.7メートル、直径1メートル、排水量8トンで、魚雷の本体に外筒をかぶせて、一人乗りのスペースと潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5トンとして、最高速度時速55キロで23キロメートルの航続力があった。当初突入前に乗員が脱出するハッチがあったが後に廃止された。1944年7月に呉工廠で2基の試作がなされた。搭乗員は潜望鏡で敵艦の位置を確認し潜航操舵、敵艦へ確実に命中させる(突入する)。まさに名前のとおり、戦局を一転させる必殺兵器として開発されたのである。完成後、黒木大尉(黒髪島沖での回天の訓練中の事故により、殉職後少佐)自身も搭乗した。
[編集] 海軍の特攻兵器開発
1944年3月、軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し、次のような 特殊奇襲兵器を緊急に実験、開発するとした。
- ㊀金物 潜航艇 (特殊潜航艇「甲標的」丁型「蚊龍」)
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(小型特殊潜水艇「海龍」)
㊃金物 船外機付き衝撃艇 (水上特攻艇「震洋」)
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 人間魚雷 (「回天」)
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器
1944年6月、マリアナ沖海戦で敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を諦めて、特殊奇襲兵器を優先的に開発、準備を決定する。1944年7月、大海指第431号では作戦方針の中で、好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅するために敵艦隊を前進根拠地において奇襲する、潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などによる各種奇襲戦を実施する、局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める、とした。こうして、軍上層部の主導の下に、人間魚雷「回天」が開発、量産され、特攻隊員の編成や訓練が、組織的に行われるようになる。
このように、1944年中旬には、軍上層部は、特殊奇襲兵器の名目で、特攻兵器回天を組織的に開発・準備した。決して、黒木博司大尉、仁科関夫中尉など一部の若手士官たちの熱意や自主的な取り組みだけで生まれたものではない。軍隊とは命令で動く硬直的な組織という側面が強く、甲標的搭乗員の創案嘆願が許可されて、人間魚雷を実用化に移したという説には、疑問が残る。現場主導説は、若手士官からの創案として、海軍上層部の主導した回天の開発・特別攻撃隊の編成という責任を回避する目的があるようにも見受けられる。
1945年1月18日、大本営と政府主要閣僚の集まる最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議)において、全軍特攻化が、日本軍の最高戦略となっている。
[編集] 戦歴
実戦では潜水艦を母艦として運搬されて運用された。本土決戦では水上艦を母艦としての作戦が計画されていた。軽巡洋艦北上をはじめとして駆逐艦や一等輸送艦が改造された。回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃では4基が出撃、サイパンに向かう重巡3隻、駆逐艦3隻のため開けられた防潜網から港内の進入に成功した。しかし米軍は真珠湾の教訓から碇泊中の艦1隻ずつの周囲に球状のブイを並べその下に網をたらして魚雷を防いでいた。このため停泊中の大型タンカー、ミシシネワ号を撃沈するに留まり、残りは標的を探すうちに駆逐艦によって撃沈された。のちに泊地攻撃が米軍の警戒が厳重になったことから、輸送船団を狙うように作戦が変更される。
潜水艦は敵と遭遇し攻撃を受けた場合、深度を深くとって攻撃を回避することが有効である。伊号潜水艦は100m以上の潜水が可能であったが、回天は最大でも80mの耐圧深度しかなく母艦潜水艦の水中機動は妨げられ、西洋の対Uボート作戦の中で開発された優れた米軍の対潜兵器とあいまって、途中で母艦ごと撃沈される例が多かった。もともと、回天の母体の93式3型魚雷は長時間水中にあることは予定されておらず、魚雷内の燃焼室と気筒に水圧がかかってエンジンが故障してしまい、出撃時には使用不能になっていることもあった。
その操縦も至難であり、発進後も必ずしも航走できるとは限らなかった。終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、1,375人であったが、出撃にまでこぎ付けた者は少なく、さらに出撃しても回天の故障によって生還した者もあり、戦没者となったのは106人のみである。末期には回天を輸送する船舶も払底し、また首尾よく敵艦に向け発進できた「回天」特攻も戦果の定かでないものも少なくない。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になる。
回天の戦果は、撃沈4隻撃破5隻と日本軍が考えていた程には米軍の被害記録がなく、米軍が意図的に戦果を隠蔽していると考える旧軍人も多くいた。
[編集] 「回天」の基地
「回天」の訓練基地として山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島が知られている。大津島の一番南、元は別の島だったものの、400年くらい前につながってひとつの島になった馬島に、戦時中は、回天の組立工場とそれを海に下ろすためのエプロン2ヵ所と島の裏側に発射練習基地があった。工場は、戦後進駐軍により壊され、そこに現在の大津島小学校・中学校(旧 馬島小学校)がある。島の反対側までトンネルがあり、その先に発射練習基地があった。練習のコースは、大津島の徳山湾の東にあたる内海側から黒髪島方面に発射して戻ってくる第一コース、やはり内海側から発射して、馬島を周回して外海側の発射練習基地に戻る第二コース、内海側から発射して大津島を北上し、島の西を回って、外海側の発射練習基地に戻る第三コースがあった。
大津島の基地は、まもなく手狭になり、同じ山口県内の周防灘側の光と平生にも基地が設けられ、さらに大分県の国東半島の大神にも基地が設けられた。大津島を含めて、4ヵ所に基地があったことになる。回天の出撃は、大半が大津島基地からで14回、他に光から12回、平生から2回である。
現在は、高台の旧馬島小学校[1]の跡地に1968年(昭和43年)に建てられた回天記念館と回天碑、鐘楼がある。門から記念館までのアプローチには、それぞれの戦没者の名を刻んだ烈士石碑が並んでいる。初代館長は、高松工(たくみ)である。現在は周南市教育委員会が管理運営している。
なお、以前の展示品などは、回天記念館と同じ住所の休憩所「養浩館」に展示されている。そちらでは生々しい体験談を聞くことが出来る。 発射練習基地はそのほとんどが破壊され、大方の輪郭のみ残っているものの一部老朽化が進み、立ち入り禁止になっている。通称「ケイソン」と呼ばれている。
[編集] 基地回天隊
回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われたこと、また回天は本土沿岸の防衛にも効果的であると判断されたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された。第一 回天隊8基および搭乗員、整備員、基地員の全127名は1945年3月に第十八号一等輸送艦で沖縄に向け進出したが、同18日に沖縄本島北西の粟国島付近で米潜水艦「スプリンガー」に撃沈され全滅した。第二 回天隊8基は1945年5月に伊豆諸島の八丈島の2ヶ所の収容壕に配備され、敵艦隊の接近を待ったが、出撃する機会なく終戦を迎えた。その後米軍命令で壕ごと爆破処理されたが、現在は壕は発掘され説明看板が立てられている。そのほか第三・第五・第八・第九 回天隊は宮崎県、第四・第六・第七 回天隊は高知県、第十一 回天隊は愛媛県、第十二 回天隊は千葉県、第十六 回天隊は和歌山県に配備された。
[編集] 出撃
1944年11月8日に菊水隊として、ウルシー、パラオ方面に初出撃して以降1945年8月まで、金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊ののべ28隊(潜水艦32隻、回天148基 途中帰投含む)の出撃が行われている。同一の隊が、複数回の出撃を行っていたり、○○隊などは呼称であるためこのような数字になる。最初の菊水隊のみが1回限りの出撃である。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島、沖縄にかけてである。
- 搭載母艦は以下の通り。
- 菊水隊、伊三六潜、伊三七潜、伊四七潜(1944年11月8日出撃)。
- 金剛隊、伊五六潜、伊四七潜、伊三六潜、伊五三潜、伊五八潜、伊四八潜(1944年12月1日~1945年1月9日出撃)。
- 千早隊、伊三六八潜、伊三七○潜、伊四四潜(1945年2月20日、21日、22日出撃)
- 神武隊、伊五八潜、伊三六潜(1945年3月1日、2日出撃)
- 多々良隊、伊四七潜、伊五六潜、伊五八潜、伊四四潜(1945年3月28日~4月3日出撃)
- 天武隊、伊四七潜、伊三六潜(1945年4月20日、22日出撃)
- 振武隊、伊三六七潜(1945年5月5日出撃)
- 轟隊、伊三六一潜、伊三六三潜、伊三六潜、伊一六五潜(1945年5月24日~6月15日出撃)
- 多聞隊、伊五三潜、伊五八潜、伊四七潜、伊三六七潜、伊三六六潜、伊三六三潜(1945年7月14日~8月8日出撃)
[編集] 回天をめぐる人々を描いた作品
- ノンフィクション
- 解説書
- 『人間魚雷 回天』 ザメディアジョン
- 映画
- テレビドラマ
- 魚住少尉命中
- 僕たちの戦争
- 漫画
- 『特攻の島』 佐藤 秀峰 著 芳文社
[編集] その他
- 海底軍艦 (「轟天」の名は明らかに回天から)
- 潜水艦イ-57降伏せず
- ローレライ
- ビロウ
- ゴルゴ13 (回天を小型潜水艇に改造し、海賊退治に使用した)
[編集] 脚注
- ^ 戦時中の予科練宿舎が解体された後に、木造の小学校校舎として転用されていたもので、1965年(昭和40年)頃ふもとの旧回天組み立て工場跡に鉄筋コンクリート二階建ての新校舎が出来、学校が移転して使用されなくなった。学校はその後大津島小学校と改名。