カール15世 (スウェーデン王)
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カール15世(Karl XV, 1826年5月3日 - 1872年9月18日、在位1859年 - 1872年)は、スウェーデン王・ノルウェー王。ベルナドッテ朝第3代国王。ノルウェー国王としての名はカール4世。父はオスカル1世、母はジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌの孫)。
カール15世の治世は、身分制代表議会廃止と地方自治制、民主主義がありとあらゆる面で進行した時代でもある。カール15世は父王よりも柔軟で協調的で民主的であった。その為、スウェーデン国民の高い人気を得ている。内政面では国王の手を離れ、議会が国家を主導した。内閣制度も発展し、この内閣により身分制代表制度は廃止され、二院制が導入された。と言ってもまだまだ不完全ではあった。とはいえ、この改革的なカール15世の元で政治上の重要な改革と社会の発展が見られるのである。
さて国王としての主な活動は外交である。しかしこれらの外交はいずれも失敗に終わったと言える。彼はポーランド人によるロシア帝国への反乱(1863年、一月蜂起)に心を痛め、フランスと共に新十字軍の創立を考えたが、これは余りにも時代遅れであった。
カール15世は汎スカンディナヴィア主義を支持していたものの、父王よりも消極的であった。1863年にデンマークで世子のなかった国王フレデリク7世が没した。フレデリク7世とカール15世は、デンマークとスウェーデンを連合国家とする構想を立てていたが、スウェーデン政府は関心を持たなかった。汎スカンディナヴィア主義の政治局面には、スウェーデンを盟主とするカルマル同盟の再現にあった。しかし列強の圧力の中にこの構想は消失し、デンマーク国王にはオルデンブルグ朝の傍流グリュックスブルク家が迎えられた。そして直後に起こったのが第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争である。カール15世はデンマークを全面的に支持しスウェーデン軍の出兵を決意したが、政府に反対され義勇軍の参加のみに止まった。結果デンマークは敗れシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国はプロイセン王国の手に落ちるのである。
この時代は民主主義の基礎が出来つつあり、もはや、王室政治や王室外交の時代ではなかった。そして汎スカンディナヴィア主義の理想も色あせていった。
ノルウェーでは自治議会制度が発展し、スウェーデンからの離脱の一歩が刻まれた。国王はもはや名目的な王権しか行使できず、民主主義国家へとゆっくりと進んで行く事になる。なおカール15世の王妃ロヴィーサはカトリックだった。この為に1860年、宗教の信仰の自由が保障された。国民の人気の絶えなかったカール15世は、1872年に世を去った。
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