ナポレオン・ボナパルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769年8月15日-1821年5月5日)は革命期フランスの軍人・政治家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(在位1804年-1814年、1815年)。
フランス革命後のフランスをまとめあげ、フランスに帝政を敷き、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパを侵略し、席巻するも敗北し、その後ヨーロッパの秩序はウィーン体制に求められた。当時のイギリスの首相ウィリアム・ピットは、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」とナポレオンを評した。一方でゲーテは「徳を求めたもののこれを見出せず、権力を掴むに至った」と評している。今でもフランスを代表する英雄として国民の人気を集めている。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1769年、コルシカ島アジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテ(仏語名シャルル・マリ・ボナパルト)と母マリア・レティツィアの間に、夭折した子供を除く8人の子供のうち2番目として生まれる。出生時の名前はナブリオーネ・ブオナパルテ(コルシカ語: Nabulione Buonaparte)。ブオナパルテ家はイタリアのロンバルディア州に起源を持つ古い地主であった。父は判事をしていたが、コルシカ独立闘争の折にはパオリの副官を務めていた。後にフランス側に転向し、この事で貴族の資格を得た。ナブリオーネが姓をブオナパルテ(Buonaparte)からフランス風のボナパルト(Bonaparte)、名をナポレオンと改称するのはフランスで出世し始めてからのことである。
幼年期に、父カルロ、兄ジュゼッペ(仏名ジョゼフ)とともに渡仏。子供時代のナポレオンは読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』に傾倒し、おとなしい性格だった。初めは修道院付属学校に入るが、すぐに辞めて国費で1779年にブリエンヌ陸軍幼年学校に入学、1784年にパリの陸軍士官学校に入学した。この間、数学に抜群の成績を納めた。卒業試験の成績は58人中42位であったが、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11ヶ月で必要な課程を修了した事を考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。この時期のエピソードとしてクラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話がある。このころから指揮官としての才能があった。
[編集] フランス軍人として
1785年に父を亡くす。同年、砲兵士官に任官。1789年、バスティーユ牢獄陥落の報に接して、ナポレオン自身もフランス革命に参加し、ジャコバン派を支持する小冊子を出して逮捕されている。1792年にコルシカに帰郷してアジャクシオの国民衛兵隊中佐となるが、それによりフランス王党派と繋がりのあるパオリと亀裂が生じ、パオリの腹心でナポレオンの縁戚関係にあるボルゴらによってブオナパルテ家弾劾決議を下され、一家で追放に近い逃避行によってマルセイユに移住する。
マルセイユでは、裕福な商家であるクラリー家と親しくなる。兄ジョゼフは、クラリー家のマリー=ジュリーと結婚し、ナポレオンもマリー=ジュリーの妹デジレ(デジレ・クラリー)と恋仲となり、婚約している。1793年末、フランス軍大尉(直後に少佐)として勤務していた際に、イギリス艦隊に占拠されたトゥーロン攻略作戦に砲兵専門家の才を買われ参加。司令官のデュゴミエ将軍によって自身が立てた作戦が採用され、戦闘でも功績を挙げて准将・旅団長となる。
1794年に革命政府ではロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑され、ナポレオンはその弟のオーギュスタンと繋がりがあったために投獄された。だが、釈放後に総裁政府の総裁ポール・バラスによって登用され、1795年のパリに於ける王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)を、首都の市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法であっさり鎮圧したことで師団長となり、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。
1796年、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚する。同年、バラスによってイタリア方面軍の司令官に抜擢される。このイタリア遠征をもってナポレオン戦争の開始とする見方もある。このときナポレオンは27歳であった。
[編集] 若き英雄
フランス革命戦争において総裁政府はドイツ側から二軍、イタリア側から一軍をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの軍を任された。ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝、ミラノから1797年4月にウィーンに迫り、10月に城下の盟を誓わせた(カンポ・フォルミオの和約)。11月、フランスへの帰国途中、1798年に行われるラシュタット会議に儀礼的に参加。この時、フランス革命において暗躍したスウェーデンのフェルセン伯爵と出会った。12月、パリへと帰還したナポレオンはフランスの新たな若き英雄となっていた。このときタレーラン=ペリゴールと出会う。
オーストリアが脱落した事で第一次対仏大同盟は崩壊したが、強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンはイギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、エジプト遠征を総裁政府に進言し、これを認められた。1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオンが率いる軍はエジプトに孤立してしまう。
12月には第二次対仏大同盟が結成され、再びフランスは危機に陥る。1799年にはオーストリアによってイタリアを奪還され、民衆の間では総裁政府を糾弾する声が高くなっていた。ナポレオンは、第一次アブキールの戦いに勝った後でエジプトを脱出しフランスへ帰還する。民衆はナポレオンを、エジプトを平定した英雄として歓呼と共に迎えた。11月、ナポレオンはブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立、自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪で銃殺刑を免れ得なかった。
[編集] 統領ナポレオン
政権の座に着いたナポレオンは連合国に対して講和を申し出るが、これは拒絶される。それに対しナポレオンはアルプスを越えて北イタリアに進出、1800年6月のマレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利、フランスの別働軍もオーストリア軍を撃破し、翌年2月にオーストリアは和約に応じて、ライン川の左端をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約で第二次対仏大同盟は崩壊し、イギリスのみが戦争を続けるものの1802年3月にはアミアンの和約で一時的に講和した。
また並行して内政面でも諸改革を行った。全国的な税制制度、行政制度の整備を進めると同時に革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力をそそいだ。1800年にはフランス銀行を設立し経済の安定をはかった。1802年には有名なレジオン・ドヌール勲章を創設した。また、教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定してもいる。さらには国内の法整備にも取り組み1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を制定した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。他にも教育・交通網の整備にも尽力している。
ローマ教会との和解も目指したナポレオンは1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和した。また王党派・ジャコバン派などの前歴を問わず人材を登用し、国内を融和に導いた。その一方で現在の体制を覆そうとする者には容赦をせずに弾圧した。第一執政となった時から暗殺未遂事件は激化し、1800年12月に王党派による爆弾テロも起きている。これらの事件の果ての1804年3月のフランス王族アンギャン公の処刑は、全ヨーロッパに反ナポレオン、対反キリストの情勢を生み出し、逆にナポレオン陣営は、相次ぐ暗殺未遂からの対抗から帝制への道を突き進んで行く。そして1802年8月2日に終身統領(終身執政)となり、独裁権をさらに強めていった。
[編集] 皇帝ナポレオン
1804年12月2日に即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就いた(フランス第一帝政)。この事は多方面に様々な衝撃を与えた。彼を人民の英雄と期待し「ボナパルト」と言う題名でナポレオンに献呈する予定で交響曲第3番を作曲していたベートーヴェンは、失望してナポレオンへのメッセージを捨て曲名も『英雄』に変更した。当然ながら、ナポレオンへの曲の献呈は取り止めたというが、この逸話が事実であるかどうかについては異説が多い。ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬しており、第3楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し、献呈を取りやめたという説もある。
ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。
アミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は再び戦争状態に入っていた。1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させる。イギリスはこれに対してオーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成する。プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーヴァーを譲渡するとの約束をした。
陸上ではナポレオンは、10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領する。そしてオーストリアを救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍がオーストリアのフランツ1世の軍と合流し、即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地でナポレオン軍と激突。ナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、オーストリアはプレスブルク条約でフランスに屈服した。この戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦と呼ばれる。イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没した。凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝して1806年に建築が命じられたものである。
しかしその一方で1805年10月にネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。尤もナポレオンは、この敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解される事になったという。
ヨーロッパ中央を制圧したナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、ライン同盟を発足させてこれを保護国化することでドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことで長い歴史を持つ神聖ローマ帝国は事実上解体した。
[編集] 絶頂へ
ドイツに対してナポレオンが強い影響力を持つ事に不快感を感じたプロイセンはナポレオンと対立するようになり、1806年、イギリス・ロシア・スウェーデンを集めて第四次対仏大同盟を組織。ナポレオンは、10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を破ってベルリンを占領。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は逃亡する。
1807年、ナポレオンはポーランドへ向かう。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会う。彼女はナポレオンの愛人となり、後にナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産した。同年、プロイセンを救援に来たロシア軍をアイラウの戦い・フリートラントの戦いで撃破する。講和条約のティルジット条約でプロイセンの領土を大幅に削って小国にしてしまい、ポーランドに誕生させたワルシャワ公国、弟ジェロームを王位に就けて誕生させたヴェストファーレン王国をともにフランスの傀儡国家とした。
スウェーデンに対してもフランス元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる。この王家は現在まで続いているが、ベルナドット自身がナポレオンに対してあまり好意を抱いておらず、スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、強固たる関係とはいえない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。結局デンマークは同盟関係を破棄できず破局を見る。
並行して1806年11月に、イギリスへの対抗策としてベルリン勅令(大陸封鎖令)を出し、戦勝したロシア・プロイセンなども参加させて大陸とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とそうとしたが、これは大陸諸国とフランス民衆の大きな不満を買うことになる。
1808年、スペイン・ブルボン朝の内紛に乗じて兄ジョゼフを王位につける。しかしこれに対するスペインの反発は激しく、半島戦争(1808年-1814年)が起こり、蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス軍は苦戦する(「ゲリラ」という語はこのとき生まれた)。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画は有名である。ナポレオンが「スペインの潰瘍が私を滅ぼした」と語ったとおり、このスペインでの戦役は、ナポレオンの栄光のターニング・ポイントであった。後年ナポレオンにとって、スペインはアキレス腱となり、没落の遠因にもなったからである。この時のイギリス軍将軍は、後のウェリントン公アーサー・ウェルズリーであった。
1809年、ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、ナポレオンに対して起ち上がり、イギリスとオーストリアで第五次対仏大同盟が結成される。しかしこの同盟にはプロイセンが参加しておらず、ナポレオンはオーストリアにアスペルン・エスリンクの戦いで敗れるが、ヴァグラムの戦いで辛くも勝利。シェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。
この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、翌年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。この婚約は当初ロシア皇女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。1811年に王子ナポレオン2世が誕生し、乳児をローマ王の地位に就けた。この過程で教皇領は解体され、ローマ教皇ピウス7世は幽閉される。
ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパを制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。
[編集] 滅亡へ
大陸封鎖令を出した事でイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが務めるのは無理があったので、フランス産業も苦境に陥った。そのために1810年にロシアが封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開し、ナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。1812年、ナポレオンはロシア遠征を決行する(ロシア側では祖国戦争と呼ばれる)。
フランスは同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入したが、兵站を軽視したナポレオン軍は、ロシア軍の広大な国土を活用し徹底した焦土戦術によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落し、モスクワをも大火で焦土とされたことで、ナポレオン軍はとても留まっておられずに総退却となった。冬将軍もロシアに最大限に味方して、数十万のフランス兵がロシアの大地に散った。無事に帰還してこられたものはわずか5千であったという。それに加え、パリではクーデター未遂が起こされる始末であった(首謀者マレー将軍は後に銃殺)。ナポレオンはクーデターの報を聞き、撤退する軍よりも早く帰国する。この途上でナポレオンは、大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世の様にはなりたくない」と洩らしたという。
この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成する。この同盟にはベルナドットのスウェーデンも参加していた。ロシア遠征で数十万の兵を失った後、強制的に徴兵された新米で訓練不足の若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデン等の同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦いに勝って休戦。メッテルニヒとの和平交渉が不調に終わった後、秋のライプツィヒの戦いでは同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。
1814年に情勢はさらに悪化し、フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク、ブリュッヒャー両将軍の軍勢25万、北西にはベルナドット将軍の16万、南方ではウェルズリー将軍の10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。3月31日には帝国の首都パリが陥落する。ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日、将軍連の反乱)、4月16日のフォンテーヌブロー条約の締結の後、エルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。
ナポレオンは、ローマ王だったナポレオン2世を後継者としたかったが、同盟国側に認められず、またベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末、ブルボン家が後継に選ばれた(王政復古)。
[編集] 百日天下とその後
ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。
1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗して百日天下は終わった(実際は95日間)。
ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。イギリス政府はアーサー・ウェルズリー(ウェリントン)将軍の提案を採用しナポレオンを大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉した。
ナポレオンはごく少数の随行者とともに島中央のロングウッドの屋敷で生活した。その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、ナポレオンの行動を監視した。また、乗馬での散歩も制限され、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残した(ラス・カーズの『セント・ヘレナ覚書』など)。これらは彼の人生のみならず彼の世界観・歴史観・人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。
ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロウの無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はロウという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。そうした心労も重なって彼の病状は進行し1821年に死去した。彼の遺体は遺言により解剖され、死因としては当時公式には胃癌と発表されたが、近年ヒ素による部下の暗殺であったことが明らかにされた。その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。
[編集] 死因をめぐる論議
ヒ素中毒説が語られるのは、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返した時、その身体が死の直後と変わりなかった事(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)からうかがえる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに行った者がワインに混入した説、その当時の剥製にはヒ素が使われていて、ナポレオンの部屋にあった剥製のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだ、という説がある。後者については2002年にパリ警視庁・法医学研究所がナポレオンの皇帝時代に採取された髪に対して放射光による調査を行ったところ、当時既にかなりのヒ素中毒であったことが判明している。また埋葬時に遺体に対してヒ素で保存処置を行った可能性もあり、彼の死因については依然として論議が続いている。
最近の研究では胃癌、あるいは胃潰瘍の説が取り沙汰されている。ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者がいたし、ナポレオン自身もまた胃潰瘍であった。特に1817年以降の病気は悪化している。もっとも20年以上に渡り戦場を駆けめぐり、重圧と緊張が持続し続けた生活では、元々頑丈ではなかった心身に変調を来たさない訳はなかった。それでも若い頃は精神力でカバーできていたが、40歳を迎える頃には、精神障害・生理傷害・感覚障害・形態傷害などがナポレオンの体を蝕んでいた。その死は、ナポレオンが没落し、激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるといわれている。それは心身ともに打ちのめされた人間に起こりやすいといわれている。まさに英雄から敗北者・戦犯に貶められた、ナポレオンにこそ当てはまるのではないかと主張する医学者もいる。しかしナポレオンの死の原因は、21世紀の現在に至っても決着していない。
[編集] ナポレオン後のフランス
ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという結果に終わった。一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)された。軍人、小土地自由農民とプチブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現われた。以後フランスの人口は伸び悩み、イギリス・ドイツなどに抜かれる事となった。1831年には、フランス軍の夥しい喪失からフランス人からの徴兵は止めて多国籍によるフランス外人部隊が創設される事になった。
即位したルイ18世とその後のシャルル10世はナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。王党派は、1815年の王政復古から、反ボナパルティズムを取り、数年に渡り白色テロを繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにも繋がった。ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた、欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火して行くことになる。
1840年に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第二帝政を生み出すことになる。
[編集] ナポレオンの影響
ナポレオンの法・政治・軍事といった遺産はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。このことはローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を与えた。
ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。アメリカ合衆国ルイジアナ州の現行民法もナポレオン法典である。
軍事的にもナポレオンが生み出した、国民軍の創設、砲兵・騎兵・歩兵の連携、輜重の重視、指揮官の養成などその後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となり、プロイセンにおいてカール・フォン・クラウゼヴィッツによって『戦争論』に理論化されることになる。
政治思想史に於いてもフランス革命の理念(自由、平等、博愛)がナポレオン戦争によって各国に輸出されたという事も見逃してはならない。ちなみに、道路の右側通行がヨーロッパ全土に普及したのもこの頃である(イギリスは占領されなかったので左側通行のまま)。
「輜重の重視」という方針を実行する過程において、軍用食の開発のために効率的な食料の保存方法を広く公募する事も行い、そこで発明されて採用されたのがニコラ・アペールが発明した「瓶詰」である。「瓶詰」そのものは加工の手間がかかり過ぎて普及しにくかったものの、ここで発明された「密封後に加熱殺菌」という概念が、後に「缶詰」(1810年イギリスにて発明)などの保存食の大発展へと繋がっていく。
また、ナポレオンのイギリス封鎖によって砂糖価格が暴騰、ピート(甜菜、別名:砂糖大根)から砂糖を作る事が一気に普及する結果となった。
[編集] ナポレオンの関係者たち
[編集] ナポレオン麾下の元帥
- ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ
- ミシェル・ネイ
- ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット
- ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
- ルイ=ニコラ・ダヴー
- ジョアシャン・ミュラ
- アンドレ・マッセナ
- ルイ・アレクサンドル・ベルティエ
- ジャン・ランヌ
- ルイ=ガブリエル・スーシェ
- ニコラ・ウディノ
- フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル
- ジャン=バティスト・ジュールダン
- ジャン=バティスト・べシェール
- ギヨーム・ブリューン
- ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー
- エドゥアール・モルティエ
- シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー
- ジャン=マシュー・フィリベール・セリュリエ
- クロード・ヴィクトル=ペラン
- ジャック・マクドナルド
- オーギュスト・マルモン
- ローラン・グーヴィオン=サン=シール
- フランソワ・クリストフ・ケレルマン
- カトリーヌ=ドミニク・ド・ぺリニョン
- エマニュエル・ド・グルーシー
[編集] ナポレオンの一族・妻・愛人
- 父:シャルル・マリ・ボナパルト(カルロ・マリア・ブオナパルテ)
- 母:マリア・レティツィア・ボナパルト(旧姓ラモリノ)
- 兄:ジョゼフ・ボナパルト(コルシカ名;ジュゼッペ)
- 弟:リュシアン・ボナパルト(コルシカ名;ルチアーノ)
- 妹:エリザ・ボナパルト(コルシカ名;マリア・アンナ)
- 弟:ルイ・ボナパルト(コルシカ名;ルイジ)
- 妹:ポーリーヌ・ボナパルト(コルシカ名;パオレッタ)
- 妹:カロリーヌ・ボナパルト(コルシカ名;マリア・アヌンツィアタ)
- 弟:ジェローム・ボナパルト(コルシカ名;ジルラモ)
- 妻:ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
- 継子:ウジェーヌ・ド・ボアルネ
- 継子、ルイの妻:オルタンス・ド・ボアルネ
- 妻:マリ・ルイーズ
- 子:ナポレオン2世(ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ またはフランソワ・ボナパルト)
- 愛人:ルイーズ・カトリーヌ・エレオノール・ドニュエル・ド・ラ・プレニュ
- 子:レオン伯シャルル
- 愛人:マリア・ヴァレフスカ
- 姪(ジェローム・ボナパルトの子):マチルド・ボナパルト
- 甥(ジェローム・ボナパルトの子):ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト(プリンス・ナポレオン)
- ジェローム・ボナパルトの孫:チャールズ・ジョセフ・ボナパルト
- 父方の叔父:ジョゼフ・フェッシュ
- 兄嫁(ジョゼフの妻):マリー・ジュリー・クラリー
- 妹婿(カロリーヌの夫):ジョアシャン・ミュラ
- 妹婿(エリザの夫):フェリーチェ・バチョッキ
- 義理の姪(ジョゼフィーヌの姪):ステファニー
[編集] 愛馬
- マレンゴ - 芦毛のアラブ馬でナポレオンはこの馬によく乗っていた。上の絵画『アルプス越えのナポレオン』にも描かれている。
[編集] 各国の君主・政治家・軍人・文化人など
- フランス
- プロヴァンス伯(ルイ18世)
- アルトワ伯(シャルル10世)
- アングレーム公妃マリー・テレーズ(ルイ17世の姉)
- ラザール・カルノー
- エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス(アベ・シェイエス)
- シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
- ポール・バラス
- ジョゼフ・フーシェ
- トマ=アレクサンドル・デュマ
- ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー
- ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍
- シャルル・アンドレ・メルダ准将
- スタール夫人
- テレーズ・フィギュール(ボナパルティスト)
- アンギャン公ルイ・アントワーヌ
- アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン
- シャルル=フランソワ・ルブラン
- ロシア
- パーヴェル1世
- アレクサンドル1世
- ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフ
- ピョートル・イワノヴィチ・バグラチオン
- バルクライ・ド・トーリ
- ポッツォ・ディ・ボルゴ(コルシカ人。ボナパルト家の遠戚。アレクサンドル1世の外交顧問)
- オーストリア
- オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)
- カール大公
- ヨハン大公
- クレメンス・メッテルニヒ
- カール=フィリップ・フォン・シュヴァルツェンベルク
- アーダム=アルベルト・フォン・ナイペルク(パルマ総督。マリ・ルイーズと再婚)
- ニコラウス・エステルハージ(エステルハージ・ミクローシュ)
- プロイセン王国
- フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
- ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ(メクレンブルク公女・プロイセン王妃)
- ハインリヒ=フリードリヒ=カール=ライヒスフライヘル・フォン・シュタイン
- ヴィルヘルム・フォン・フンボルト
- ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャー
- ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト
- アウグスト・グナイゼナウ
- カール・フォン・クラウゼヴィッツ
- ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ
- スウェーデン
- グスタフ4世アドルフ
- カール13世
- カール14世ヨハン(ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット)
- デジレ・クラリー(スウェーデン王カール14世妃。義姉マリー・クラリーの実妹。ナポレオンの元婚約者)
- ハンス・アクセル・フォン・フェルセン
- オスマン帝国
- セリム3世
- マフムト2世
- ナクシディル・スルタン(マフムト2世の母后。妻ジョゼフィーヌの従妹エイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリと同一人物との説がある)
- ムハンマド・アリー
- ムラード・ベイ(エジプト遠征当時のエジプト・マムルークの最有力者)
[編集] その他
[編集] ナポレオンの言葉
詳細はウィキクォートを参照。
- Impossible, n'est pas francais.「不可能という言葉はフランス的ではない」
- ナポレオンが日常よく口にした言葉で、一般には「余の辞書に不可能の文字はない」として知られている。「不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する」という言葉から、変わったという説もある。
[編集] ナポレオンに関する逸話
- 一日三時間しか寝なかった話が有名だが、彼は昼寝をしっかりと取っていた。
- (王であり軍神という偶像化された自分の立場の重い責務でストレスを溜め、夜遅くまで酒を飲み、脂っこい飯を食べ、昼にグーグー寝るというのが死期を早めたと思われる)
- ジャック=ルイ・ダヴィッドによるアルプス越えの絵画で彼が乗っているのは白馬だが、実際に乗っていたのはロバだった。
- ブレザーなどの袖についているボタンは、ナポレオンがロシア遠征の際に、兵士達が袖で鼻水を拭えないようにするために付けたのがはじまり。
- ナポレオンは、痔に悩まされていた。
- エルバ島から脱出しパリに戻る道中で好んで食べていたのは目玉焼き。
- 友人に宛てて書いた手紙があまりの悪筆で、戦場の地図と間違えられたことがある。
- ナポレオンは2回自殺未遂をしたことがあった。
- ナポレオンはシャンパンを入れた風呂に入っていた。
- ナポレオンは妻のジョゼフィーヌに、毎晩本を読んでもらうのが日課だった。
- ナポレオンが寝ているところにブルーチーズを持って行ったところ、ナポレオンは「おお、ジョゼフィーヌか」と起床したという。
- ナポレオンは音痴だった。
- ナポレオンは暗殺されるのを恐れ、自分で髭を剃っていた。
- ナポレオンは一定時間その場所にいられなかったほど落ち着きが無かった。
- ナポレオンは読書好きで有名だったが飽きっぽい性格の為読破した本は殆ど無かった。ただしゲーテの「若きウェルテルの悩み」だけは例外で生涯に7度も読んでいる。
- ナポレオンは胃下垂だった。
- ナポレオンは当時としては珍しいギター弾きであった。
- ナポレオンは、左手にコインを持って、右手のフライパンで焼けたクレープをうまくひっくり返せたら1年がうまくいくというクレープ占いにハマっていた。そして、1812 年2月2日、クレープ占いに挑戦し、5枚目に失敗。その年、彼はモスクワ遠征に失敗し、退却する際「余の5枚目のクレープだ」と呟いたそうである。
- 数学好きとして知られるナポレオンは、側近に数学者を置いて数学の勉強を続けた(フーリエなど。また、ルジャンドルやラグランジュとも親交があった)。ナポレオンが発見したとされる(諸説あり、真相は定かではない)、ナポレオンの定理という物がある。
[編集] ナポレオンを扱った作品
[編集] 映画
- 『ナポレオン』(1927年 監督:アベル・ガンス)
- 『タレイラン』(1948年 監督:サシャ・ギトリ)
- 『ナポレオン』(1954年 監督:サシャ・ギトリ)
- 『戦争と平和』(1955年 監督:キング・ヴィダー)
- 『アウステルリッツ』(1960年 監督:アベル・ガンス)
- 『戦争と平和』(1966・67年 監督:セルゲイ・ボンダルチュク)
- 『ワーテルロー』(1970年 監督:セルゲイ・ボンダルチュク)
- 『ボナパルトと革命』(1971年 監督:アベル・ガンス)
- 『アデュー・ボナパルト』(1984年 監督:ヨーセフ・シャヒーン)(映画祭上映のみ)
- 『ナポレオン』(邦題:『キング・オブ・キングス』)(2003年 監督:イヴ・シモノー)
ギネスブックによると、歴史上の人物でもっとも多く映画に登場したのはナポレオンである。(177回)
[編集] 書籍
ナポレオンは「死んだ翌日から」伝記が書かれた人物と呼ばれるほど、彼について書かれた書籍は多い。
- 伝記
- 小説
- 漫画
- 『栄光のナポレオン-エロイカ』(池田理代子)
- 『ナポレオン‐獅子の時代‐』(長谷川哲也)
- 舞台
「愛あれば命は永遠に」(宝塚歌劇花組公演)
[編集] ゲーム
- トランプゲームとしての「ナポレオン」
- ボードゲームのウォー・シミュレーションゲーム(ナポレオンの関わった会戦を扱ったものが多数存在)
- 『L'EMPEREUR』(光栄)PC-9801・ファミリーコンピュータ・Windows
- 『ナポレオン戦記』(アイレム)ファミリーコンピュータ
- 『ナポレオン』(任天堂)ゲームボーイアドバンス ※フィクション色が強く、史実を忠実に再現するものではない。
[編集] 関連項目
- ナポレオンに例えられた将帥
- ミハイル・トゥハチェフスキー - ソ連赤軍総参謀長
- ヴォー・グエン・ザップ - 北ベトナム人民軍総司令官
- ミシェル・プラティニ―サッカー選手
[編集] 参考文献
- 両角良彦『反ナポレオン考 時代と人間〈新版〉』朝日新聞社、1998年。[ISBN 4-02-259715-1]
[編集] ゲーム
- コマンド・マガジン第52号 『窮地のフランス』赤い夕日のナポレオン、国際通信社
[編集] 外部リンク
- NAPOLEON!(日本語個人サイト)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランスの歴史 - メロヴィング朝 - カロリング朝 - カペー朝 - ヴァロワ朝 - ブルボン朝 - 第一帝政 - 復古王政 - 七月王政 - 第二帝政 |
カテゴリ: フランスの君主 | イタリアの君主 | フランス第一帝政 | 18世紀のヨーロッパ史 | ジャコバン派 | フランス革命期の軍人 | ナポレオン戦争のフランスの軍人 | 独裁者 | 破門 | ボナパルト家 | 1769年生 | 1821年没