ガブリエル・ド・ロルジュ
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モンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュ(Gabriel de Lorges, Comte de Montgommery ; ガブリエル・ド・モンゴムリ、1526年または1530年-1574年)は、フランスの軍人。不慮の事故により、フランス国王アンリ2世を弑殺する形になってしまった。
その後のユグノー戦争期には、ユグノー側の指揮官の一人として戦った。単にモンゴムリ伯(モンゴメリー伯)と呼ばれることも多い。
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[編集] 生涯
モンゴムリ伯は、ノルマンディ地方のロルジュ及びデュセーの領主でもあり、このどちらかの地で生まれた。父はスコットランド出身のモンゴムリ伯ジャック・ド・ロルジュであった。ガブリエルは、スコットランド護衛兵から分かれてフランス国王に仕えていた護衛隊の隊長であった。
1559年6月30日、アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の結婚を祝う宴の一環で行われた馬上槍試合において、モンゴムリ伯はアンリ2世の対戦相手を仰せつかった。伯はこの試合の中で、過失からアンリ2世の右目を貫いてしまった。何とか助けようとする周囲の努力も空しく、アンリ2世はこの傷がもとで7月10日に没してしまった。
アンリ2世は死に瀕しつつも、モンゴムリ伯が負いうる全ての罪科を免ずるとの認識を示したが、王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、モンゴムリ伯弾劾を止めなかった。宮廷から追放された翌日に、モンゴムリ伯はイギリスへ逃亡した。彼はその地でプロテスタントを支持した。
フランスへ戻ると、ノルマンディ地方のプロテスタントの闘士として、また、ガスパール・ド・コリニー麾下の最も有能な指揮官の一人として戦った。
第一次ユグノー戦争中の1562年5月には、ブールジュを略奪の上で占領した。彼はノルマンディでマチニョン元帥と対峙した。第三次ユグノー戦争期(1569年-1570年)の、ギュイエンヌ、ペリゴール、ケルシー、ベアルンなどの戦場においては、彼はプロテスタント陣営での大指揮官の一人であった。ジャルナックの戦いでは、コンデの解放を試みたが、失敗した。
サン・バルテルミの虐殺の時には、辛くも難を逃れている。コリニーが殺されかかった時点で、あるユグノーが負傷をおしてセーヌ川を泳いで渡り、彼に事態を知らせたからである。モンゴムリ伯はイギリスに退いたが、その首には賞金が懸けられたため、イギリスまで追いかけてくる追跡者もいた。また、カトリーヌはエリザベス1世に伯の引き渡しを数度に渡り要求したが、いずれも拒否された。
カトリーヌがようやく溜飲を下げたのは、1574年のことだった。ノルマンディ地方の蜂起が行き詰まった後の5月9日に、ドンフロンで攻囲されたモンゴムリ伯は、同27日にマチニョン元帥に投降したのである。パリに連行された伯は、助命するという約束を反故にされ6月26日に斬首された。処刑台で、財産没収の上で子供たちの肩書きも剥奪という王令を知らされた伯は、子供たちへの伝言として、奪われたものを取り戻せなければ、草葉の陰から呪ってやる、と語ったという。
[編集] 子孫
最も有名な末裔は、第二次世界大戦期におけるイギリス陸軍のバーナード・モントゴメリー将軍である。
ガブリエル・ド・モンゴムリは、妻イザボー・ド・ラ・チラル(エリザベート・ド・ラ・トゥーシュとも呼ばれる)との間に、4男4女をもうけた。
- ジャック2世(1551年-1590年)
- ジェデオン(1596年没)
- ジル(1558年-1596年)
- ガブリエル2世(1565年-1635年) - 6児の父。
- 4人の娘 - シュザンヌ、エリザベート、クロード、名前の伝わっていない四女(ガラルドン男爵ジュアン・ド・ルフュージュと結婚したことは分かっている)。
[編集] 文学の題材として
アレクサンドル・デュマは、小説『2人のディアーヌ』で小説風に脚色されたモンゴムリ伯の物語を描いている。
[編集] ノストラダムスの予言
現在、モンゴムリ伯の名は、ノストラダムスの予言解釈で引き合いに出されることが多い。
これは『百詩篇集』第1巻35番にアンリ2世の死が予言されている、という話が有名なためである(この話は山川出版社刊『詳説世界史研究』のような通史的概説書のコラムでも取り上げられており、後掲の伝記もその詩の引用から本編を書き始めている)。
- 若き獅子が老いたるを乗り越えるだろう、
- 一騎打ちの戦場で。
- 黄金の籠の中の双眼を彼は引き裂くだろう。
- 二艦隊の一つ、そして死ぬ。酷き死。
信奉者はこの「若き獅子」をモンゴムリ伯と解釈している。しかし、モンゴムリ伯29-33歳に対しアンリ2世は40歳で「若い」「老いた」の対比は適切ではない。また、彼らの紋章等は獅子とは関係がない。アンリ2世の兜は黄金ではなかったし、貫かれたのは片目である。4行目の「艦隊」なども何の関係もない。
このように詩の情景は史実とほとんど一致していない(こうした点は19世紀半ばには書誌学者フランソワ・ビュジェによって指摘されていた)。17世紀に的中例として紹介され始めた時には、一部が省略されたり、詩句が改竄される形で喧伝された。
[編集] 伝記
- Alain Landurant, Montgommery, le régicide, Tallandier,1988