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アンリ2世(Henri II de France, 1519年3月31日 - 1559年7月10日、在位1547年 - 1559年)はヴァロワ朝第10代フランス王。父フランソワ1世。妻はメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシス。しかし、カトリーヌが嫁ぐ前から家庭教師であったディアンヌ・ド・ポワティエと長く愛人関係にあり、妻とは不仲であったといわれる。
父の対外積極政策を継承して、ハプスブルク家のカール5世・フェリペ2世父子と争ったが、既にハプスブルク家の優位は動かなかった(イタリア戦争)。1559年のカトー・カンブレジ条約でフランスはイタリアへの権利を放棄し、イタリア戦争は終結した。
1559年6月30日、アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の結婚を祝う宴の一環で行われた、モンゴムリ伯との馬上槍試合において、アンリ2世は偶発的に右目を貫かれてしまった。この治療に当たって、国王附きの筆頭侍医ジャン・シャプランは、名医アンブロワーズ・パレを呼び、治療法の検討の為に6人の死刑囚を実験台にした。また、サヴォワ公はカール5世に、解剖医ヴェサリウスを遣わしてほしいと依頼し、皇帝も応諾した(ヴェサリウスは7月3日に到着)。
しかし、こうした周囲の努力も空しく、アンリ2世はこの傷がもとで7月10日に没してしまった。この件は、ルーカ・ガウリコやノストラダムスといった同時代の占星術師たちの予言の的中例という形で、言及されることがしばしばある。ただし、実際にそのように見なせるかは、議論の余地がある。
アンリ死後のフランスはカトリックとプロテスタントの抗争で内戦状態(1562年~、ユグノー戦争)になる。