キャロライン・オブ・ブランズウィック
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キャロライン・オブ・ブランズウィック(Caroline Amelia Elizabeth of Brunswick-Wolfenbüttel, 1768年5月17日 - 1821年8月7日)はイギリス国王ジョージ4世の王妃。父はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム、母はジョージ3世の姉オーガスタ。ジョージ4世とは従兄妹同士である。
1793年、皇太子ジョージの借金は、再三の政府の埋め合わせにもかかわらず、40万ポンドに達していた。国王の年間宮廷費が83万ポンドであるのに対し、その半分を彼の借金がしめるという有様である。困り果てたジョージ3世は、正式な結婚を皇太子に迫り、それを条件に借金の棒引きを持ちかけた。国王には7男があったが、当時、31歳の皇太子から19歳のケンブリッジ公アドルファスに至るまで全員未婚であった。しかも、未成年の末子を別にしても、他の6人にいずれも愛人がいるという頭の痛い問題となっていた。肖像画でその美貌が謳われていたキャロラインをジョージが選び、政略もあり結婚となった。
1795年、ロンドンに到着したキャロラインと面会したジョージは、彼女の強烈な体臭に面食らったという(日本ほど入浴の習慣のないヨーロッパでは体臭が当たり前だったが、キャロラインは風呂嫌いで有名だった)。キャロラインのほうも、ジョージの異常な肥満体(1791年には110キロあったという)に失望したという。3日後、セント・ジェームズ宮殿で挙式が行われたが、式にのぞんだジョージはやけくそのように泥酔し、弟たちに左右を支えられている有様であった。
1796年1月に長女シャーロットが生まれた。それから間もなく2人は別居し、ジョージは愛人フィッツハーバート夫人と再び同棲を始めた。シャーロット王女は王家が養育し、母キャロラインからも離された。娘と会うのをジョージに妨害され、孤独の生活に追いやられたキャロラインは、1813年から大陸諸国への旅行を許され出国し、旅から旅の生活が始まった。
1816年、シャーロット王女がザクセン=コーブルク公家の末子レオポルト(ケント公妃ヴィクトリア(ヴィクトリア女王の母)の弟、後に初代ベルギー国王レオポルド1世となる)と結婚したが、翌1817年に男子を死産して間もなく死去した。自分と暮らしたことのない娘であったが、その死に目にも会えなかった。
1820年1月、国王ジョージ4世は、法的には今や王妃であるキャロラインとの離婚を考えた。手始めに王家の祈祷書から名前を削ろうとするが、カンタベリー大主教サットンが猛反発した。次は、内閣に離婚承認案の成立を要求した。侍従との間に不貞をはたらいたという理由であったが、否決された。怒り心頭の国王は、戴冠式への王妃の出席を拒否した。1821年、キャロラインは戴冠式に備えて急ぎ帰国したが、国王が手を回していたために全ての会場から閉め出された。
1821年8月7日、ハマースミスで死去した。遺言でウィンザーに眠るシャーロット王女のそばに埋葬されることを望んだが、それも拒否され、故国のブラウンシュヴァイクに葬られた。
[編集] 参考文献
- 森護 「英国王室史話」(1986年 大修館書店)