ジョージ3世 (イギリス王)
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ジョージ3世(George III, 1738年6月4日 - 1820年1月29日)は、イギリス・ハノーヴァー家第3代の国王(在位:1760年 - 1820年)。またハノーファー選帝侯、1814年以後はハノーファー王(ゲオルク3世 Georg III)を兼ねる。父はフレデリック・ルイス(ジョージ2世の長男)。母はザクセン=ゴータ=アルテンベルク公の娘オーガスタ。妃はメクレンブルク=シュトレリッツ公子カール・ルートヴィヒの娘シャーロット。別名「農夫王」(ファーマー・キング、Farmer King)、「農夫ジョージ」(ファーマー・ジョージ、Farmer George)。
天文学者のウィリアム・ハーシェル等を支持する。アメリカ植民地への課税がきっかけでアメリカ独立戦争を招き、北アメリカの領土を失った。自分の課した重税問題や身内のスキャンダルに苦悩し、1811年に精神異常(認知症)になり、以後ウィンザーで生活、長男の皇太子ジョージ(4世)が摂政として政務を執った。1820年1月29日死去、享年82。在位60年はヴィクトリア女王の64年に次ぐ歴代第2位である。
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[編集] 即位まで
ジョージ・ウィリアム・フレデリック、後のジョージ3世は、ジョージ2世の長男フレデリック・ルイス皇太子とその妃オーガスタの長男として生まれた。母オーガスタが出産前日の6月3日、夫とロンドンのセント・ジェームズ公園を散歩中、急に産気づき、そのまま出産した子である。しかも予定日より3ヶ月も早いという異常な早産であった。後に国王になってからたびたび現れた精神障害の遠因を、この早産にあるとする説もある。1751年、13歳の時に父フレデリック・ルイスが急逝したため、同年プリンス・オブ・ウェールズとなる。プリンス・オブ・ウェールズとなってからは、母オーガスタの影響力が強まり、教育の面でも息子をドイツ風の「強い君主」にして、専制政治を実現させるべく教育を行っていった。
[編集] 治世について
祖父ジョージ2世の死去を受けて1760年に即位したジョージ3世は、祖父や曽祖父のジョージ1世がドイツ生まれで、英語をほとんど理解できなかったのとは違い、生粋のイギリス人であった。このため、前2代の王達とは違い、積極的に内政、外交への介入を行った(ボリングブルックの『愛国王』の影響を受けたとされる)。1783年にウィリアム・ピット(小ピット)を首相とするが、小ピットはアダム・スミスの学説を取り入れ、自由貿易といった政策を実行していき、その政治手腕によって今日のイギリス首相の地位を確立することに成功した。また、これまで政治の実権を握っていたホイッグ党勢力を退潮させた。
ジョージ3世は王室費を節約し、浮いた資金で数多くの議員を買収し、それらの議員(「王の友」、King's Friendsと呼ばれた)を使って政策を実行していった。外交では先代ジョージ2世の時代から続くヨーロッパ諸国間の争いに加えて、アメリカ独立戦争や、フランス革命とそれに続くナポレオン戦争といった難局に直面するも、乗り切ることに成功している。また、ジョージ3世の時代は産業革命の時期であり、ジェームズ・ワットによる蒸気機関の改良、アークライトなどの紡績機械の発明、スティーヴンソン親子による蒸気機関車の発明などによって、産業・交通が大きな変化を遂げた時代でもある。また、ジョージ3世自身もこうした科学技術の進歩に関心を抱き、出自が低い事を理由に当時の政治家や学者達から業績を中傷されたジョン・ハリソンを擁護して後に正当な評価を与えるきっかけを与えた事でも知られている。この一連の動きでイギリスは「世界の工場」としての地位を確立することになる。
[編集] ジョージ3世の家族
1761年9月8日にジョージ3世は、メクレンブルク=シュトレリッツ公子カール・ルートヴィヒの娘シャーロットと結婚した。2人は、1762年8月12日に生まれた王太子ジョージ・オーガスタス・フレデリック(後のジョージ4世)をはじめ、ヨーク公フレデリック、クラレンス公ウィリアム(後のウィリアム4世)、ケント公エドワード(ヴィクトリア女王の父)、カンバーランド公アーネスト(後のハノーファー王エルンスト・アウグスト)ら9男6女に恵まれた。華美を嫌い、家族を大事にするジョージ3世の性格もあり、女性問題などの夫婦間のトラブルとも無縁であった。しかし子供達は成長するにつれ、そろいもそろってスキャンダルを巻き起こす。特に王太子は、ギャンブルで多額の借金を作ったり、女性にほれ込んで多額の金を貢いで歳費が足りなくなって父親に泣きついたりという問題児であった。更に次男フレデリックは、最高軍司令官であるにもかかわらず愛人を通じて賄賂を受け取っていたことを、議会で指摘されてその地位を失うなど、スキャンダルには事欠かなかった。これらのスキャンダルは、誕生したばかりのメディアの格好の標的となり、王室一家のスキャンダルを扱った新聞や風刺漫画は大いに売れ、その様子を1990年代の一連の王室スキャンダルと比較する専門家もいるほどである。ジョージ3世が1811年に正気を完全に失ったのも、この子供達のスキャンダルが原因であり、神経が元々繊細であったジョージ3世にとって、息子達の相次ぐスキャンダルは耐え難いものであった。
[編集] 関連項目
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