グレゴリウス13世 (ローマ教皇)
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グレゴリウス13世(Gregorius XIII,1502年1月7日 - 1585年4月10日)はローマ教皇(在位,1572年 - 1585年)。本名はウーゴ・ボンコンパーニョ(Ugo Buoncampagno)。学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積していたユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名。
[編集] 生涯
ウーゴはボローニャ生まれ。ボローニャ大学で法学を修め、1530年に学位を得た。その後、同大学で法学の教官として教壇に立っていた。生徒の中にはカルロ・ボロメオやアレクサンダー・ファルネーゼなどがいた。36歳にして教皇パウルス3世によってローマへ招かれ、教会法関係の業務についた。枢機卿にあげられたのは教皇ピウス4世の時代であり、トリエント公会議にも参加している。
1572年5月、教皇ピウス5世の死去を受けておこなわれたコンクラーヴェにおいてボンコンパーニョ枢機卿が新教皇に選ばれ、グレゴリウス13世を名乗った。教皇位についた彼がまず全精力を傾けて取り組んだのは教会改革であった。特にトリエント公会議の決議の実施を徹底させ、不在司教が問題になっていたことを受けて司教や枢機卿は自らの担当地域に住むことを徹底させた。さらに公会議後に実施されることが決まっていた禁書目録の作成を実行するため委員会を任命している。
グレゴリウス13世治世の事跡でもっとも有名なものは何と言っても「グレゴリオ暦」として知られる新暦の採用である。ユリウス暦のずれを指摘はすでに数百年前にロジャー・ベーコンによっても指摘されていたが、トリエント公会議において教皇庁への委託業務として新暦の研究が決定されていた。これを受けて教皇はこの業務のためシルレト枢機卿を長とする委員会を設立して検討させた。委員会の中には当代随一の天文学者であったドイツのイエズス会員クリストファー・クラヴィウスも含まれており、時代の先端をゆく科学的事業であった。この委員会の研究と決定を受けて1582年2月に暦の切り替えの勅令が発せられ、暦の切り替えは1582年10月におこなわれることになった。まずカトリックの国であるイタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランドなどで採用され、ユリウス暦の1582年10月5日が10月15日に改められた。プロテスタント諸国や東方正教会に属する諸国は当時、暦であってもカトリックの影響力を受けるのは不本意としてこれを受け入れなかったが、やがてこの暦は世界中で採用されることになり、現代に至っている。また、法学者としてピウス5世時代に始められた教会法の改訂もおこなわせており、『教会法集成』として完成させた。
政治的には教皇はイスラム教国への対抗姿勢を示しつつも、プロテスタント諸国の動向が気になっていた。彼は聖職者養成のため、多くの神学校を設立し、イエズス会の教育事業を強力に後押ししている。この時代、イエズス会は多くの学校をヨーロッパに設立している。中でも有名だったのが、ローマにあったローマ学院である。これは優れた聖職者を養成するために設立されたものであったが、教皇はローマ学院に大規模な援助を行い、その規模を拡張させた。教皇のこの業績はこの学校の現在もつづく名称である「グレゴリアン大学」という名前に記念されている。
カトリック諸国のリーダーとして、教皇がイギリスのエリザベス1世の統治の転覆を支援したことはイギリスにおいてカトリック教徒が敵視される原因をつくってしまった。1578年には自らの軍勢を与えたトーマス・スタークレーに命じてイギリスの膝元であったアイルランドの侵攻をおこなわせようとしたが、スタークレーは与えられた軍をもってポルトガル王と合流し、モロッコ攻撃をおこなってしまったため企図は果たせなかった。1572年8月にフランスでサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタント支持者たちが多数殺害されると、「テ・デウム」を歌って神を賛美し、記念メダルを作らせている。ただ、この教皇の行動はプロテスタントの死を喜んだのではなく、フランス王や実行者側がこの虐殺事件を、王に対する反乱の計画者たちの誅殺であると国外に巧みに喧伝したため、それを教皇が信じていたためという見方もある。
ローマにおいてはサン・ピエトロ大聖堂にグレゴリウス聖堂を建築し、1580年には現在でも首相公邸として用いられているクィリナーレ宮殿を造営させている。さらにディオクレティアヌス帝浴場を穀倉に改造もしている。これらの資金は教皇領内の資産を没収するなどしておこなったため、貴族たちの反感を集め、統治に混乱をきたすことにもなった。また、愛人との間にもうけた庶子ジャコモを引き立てて、サンタンジェロ城の城主、教皇領国務長官などに抜擢している。教皇の歓心を買おうとしたヴェネツィア共和国はこのジャコモを貴族に加え、スペイン王は将軍位を与えている。
ちなみに天正遣欧使節の少年たちはこの教皇の最晩年に謁見を受け、ローマで大歓迎を受けた。なお、現存する最古の教皇冠はグレゴリウス13世時代のものである。
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