グレゴリウス5世 (ローマ教皇)
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グレゴリウス5世(Papa Gregorius V,972年? - 999年2月18日)はローマ教皇(在位:996年5月3日 - 999年2月18日)。ドイツ人初のローマ教皇と言われる。本名はブルーノ(Bruno)。オットー大帝の曾孫。父はカリンシアCarinthia公オットー。
ヨハネス15世の後を継いで教皇に就任したグレゴリウス5世は弱冠24歳であった。ローマに進軍していたオットー3世の従軍司祭であった彼はオットー3世によって推薦され教皇となる。
グレゴリウス5世はドイツ人初のローマ教皇だと言われる。ボニファティウス2世(530年-532年)がドイツ人初の教皇とされることがあるが、ボニファティウス2世は東ゴート族であって、ゲルマン人であるが、ドイツ人ではない。
政治上、グレゴリウス5世は首尾一貫してローマにおける皇帝の代理人として行動し、神聖ローマ帝国領内の修道院に格別な特権を多く付与した。また就任当初にはオットー3世の戴冠(996年5月21日)を行いもした。また戴冠式の数日後には教会会議を開いた。この教会会議にて、ユーグ・カペーによって失権していたアルヌルフをランス司教座へ復帰させることが決められ、ジェルベール(のちのシルウェステル2世)はランス司教座の簒奪者として非難されている。またフランス王ロベール2世とブロワ伯ティボー2世の未亡人ベルトとの結婚については、ベルトがロベール2世の従姉妹にあたるため、ロベール2世を破門とした。このためロベール2世は自国内の司教叙任権の主張を引き下げざるをえなくなった。
当時のローマはクレスケンティウス2世をはじめとしたローマ貴族の力が強く、弱冠16歳のオットー3世の意思に反旗を翻し、対立教皇ヨハネス16世(997年-998年)を選出させるほどであった。しかしオットー3世はクレスケンティウス2世らの鎮圧に成功しローマに凱旋、対立教皇ヨハネス16世は逃亡し、クレスケンティウス2世はサンタンジェロ城に立て篭もった。対立教皇ヨハネス16世は皇帝軍により追捕され、鼻と耳を削がれ、舌も切り取られ、眼を潰され、オットー3世とグレゴリウス5世の面前にて職位失効が宣言され、そして神聖ローマ帝国領内のフルダ修道院に送られることとなり、1013年までその修道院で人生を送ることとなった。サンタンジェロ城はオットー3世の兵に取り囲まれ、998年にクレスケンティウス2世は捕らえられて城壁に吊るされた。
999年2月18日にグレゴリウス5世は謎の急死。その突然の死をうけて、オットー3世は親交深くかつての家庭教師でもあったシルウェステル2世を後継として選出した。
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