ギリシャ人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ギリシャ人とは、
- ギリシャ共和国の国籍を有するもの。この場合アルーマニア人、アルバニア人、トルコ系、国外からの移住者も含まれる。
- 出自において現在のギリシャ共和国およびその周辺地域に関係を持ち、ギリシャ語を母語とする人々のことである。「ギリシャ民族」とも。ただし、歴史上、時代によりギリシャ人と呼ばれる人々の示す内実は異なる。
ここでは、2.について述べる。
目次 |
[編集] 古代
古代ギリシャ時代におけるギリシャ人は、ギリシャ語を話し、特に自由民であるものをいう。ギリシャ本土だけでなく、小アジアやヨーロッパの各地にギリシャから移住した者の手によって建設された植民市の住民も含む。彼ら自身はヘレネスと自称し、他者をバルバロイ(意味の分からない言葉を話す者)と呼んで区別した。
後に、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の大帝国建設などを経て、マケドニア地方出自者などまで含めて、広く中央アジアから地中海世界の各地にまで広がったギリシャ語を常用するものをも指すように転じた。ギリシャ人を意味する英語のGreek、フランス語のGrecなどの西欧の諸言語における呼称や日本語の「ギリシャ(人)」「ギリシア(人)」は、イタリア半島の南部に移住した人々を古代ローマ人がその土地(Graecia)の名からGraeciと呼んだことに由来する。
[編集] 中近世
中世・近世におけるギリシャ人は、主に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やオスマン帝国の統治下で、ギリシャ地域や小アジア、エーゲ海の島々に広く居住し、ギリシャ語を母語とし、正教会のキリスト教を信奉した人々のことである。
血統的には古代からの連続性があったと通常考えられているが、バルカン半島でスラヴ人と接触する機会の多かった北部などでは、スラヴ人の南下によって混血が進められたと考えられており、「中世以降のギリシャ人はギリシャ語・正教信仰を受け入れギリシャ化したスラヴ人に過ぎない」とみなした学者もいる。また帝国内にはスラヴ人のほかにもアルメニア人なども居住しており、それらとの混血や、スラヴ人・アルメニア人等のギリシャ化などが進んだと考えるのが普通である。
しかし、諸民族の移動が激しいヨーロッパにおいて、古代からの純粋な血統の民族などそもそも存在しないとも言える。一部の近代西欧人が古代ギリシャを理想化するあまり、古代との異質性を強調し、近・現代のギリシャ人を貶めようとする考え方があったことも想起すべきであろう。
[編集] 東ローマ帝国時代
東ローマ帝国時代のギリシャ人は他のキリスト教徒の諸民族からはもっぱら「ギリシャ人」と呼ばれた。しかし、ギリシャ人自身は(東)ローマ帝国市民としての自意識を持ち、ロマイオイ(ローマ人)と自称しており、「ヘレネス」は古代の異教徒を示す蔑称として嫌っていた。古代ローマ時代のことを「父祖の時代」と呼び、古代ギリシャ人の子孫であることよりも、古代ローマ帝国市民の末裔であることを誇りにしていたのである。例えば、10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世がその著書の中で、7世紀の皇帝ヘラクレイオスが帝国の公用語をラテン語からギリシャ語に改めたことを「父祖の言葉を棄てた」と表現していることからも覗えるだろう(ただし、コンスタンティノス7世もヘラクレイオスも、ギリシャ化したアルメニア人の子孫である)。
しかしその一方では、上述のように7世紀以降の東ローマ帝国ではギリシャ語が公用語となり、日常と学問の言語として常用されていたし、東ローマ帝国の知識人階層ではホメロスの詩を暗誦できるのが常識、とされたようにギリシャの古典文化が尊重されていた。
特に東ローマ帝国末期のパレオロゴス王朝期にはギリシャ古典文化が大いに見直され、復興を果たす(パレオロゴス朝ルネサンス)が、この時期のギリシャ古典文化を身につけた東ローマ帝国のギリシャ人の一部はヴェネツィア共和国によるモレア半島、キプロス島、クレタ島などの支配や1453年のコンスタンティノープルの陥落の影響で次第にイタリアなど西ヨーロッパに渡ることも多くなり、ルネサンス期の古典復興に大いに貢献したと言われる。西ヨーロッパに渡ったギリシャ人の中では、画家エル・グレコが有名である。
なお、この時代のギリシャ人について、日本の世界史教育で「東ローマ帝国によるギリシャ人の支配」と表現されることが多いが、東ローマ帝国時代は皇帝・高級官僚・コンスタンティノープル総主教など支配階級の多くがギリシャ人によって占められていた史実を鑑みると、その表現は妥当性を欠いている。
また、「1821年のギリシャ独立によって、ギリシャ人は約2000年ぶりに独立を回復した」というような表現をされることも多いが、おそらく古代ギリシャからずっとギリシャ人が政治的に主権を持つ時代がなかったと決めつけるために生まれる、不正確な表現であるといわなくてはならない。じっさいは、オスマン・トルコからの支配から数えれば、正確には368年ぶりの独立である。ギリシャ政府観光局のサイトでも、東ローマ時代をギリシャ人の歴史の一部として扱っている。
さらに一部の教科書には、東ローマ帝国における「皇帝教皇主義」の説明として、東ローマ皇帝とコンスタンティノープル総主教が同一人物であるかのごとき表現も散見されるが、両者ははっきりと別人であり、東ローマ帝国時代には総主教が皇帝の摂政・相談役であったり、さらには両者のあいだには何度か反目や軋轢が生じたことさえあった。
[編集] オスマン帝国時代
ギリシャ人は本来の居住地においては東ローマ帝国の消滅後も、オスマン帝国の領内で人頭税を納める庇護民(ズィンミー)として東方正教会の信仰を維持することを認められ、コンスタンティノープル総主教を長とする正教徒の自治体(ミッレト)を形成した。ブルガリア人やセルビア人などのバルカン半島の正教徒諸民族までを含むオスマン帝国の正教徒社会の中で、イスタンブルを中心に帝国の中央部に住むギリシャ人たちは優位に立ち、通訳官や地方長官として高い地位を得た者も現れた。
この時代を通じて彼らのアイデンティティの源はなにより正教の信仰であった。東ローマ帝国時代には「ローマ人」という意識と古代以来のギリシャ文化を尊重する伝統が両立していたが、オスマン帝国支配下では古代ギリシャ文化の知識を持つ者の多くが前述のように亡命してしまい、古代の記憶は失われてしまったのである。
このため自分たちが「ローマ人」ではなく「ギリシャ人」である、という意識を再獲得するのは、ようやく18世紀から19世紀になってヨーロッパから民族主義思想と古代ギリシャの栄光の記憶がもたらされたときであった。近代ギリシャ民族意識の誕生は、同時にオスマン帝国から独立してギリシャ人の独立国家を獲得しようとする運動を生む。
[編集] 近現代
[編集] 近代ギリシャ国家とギリシャ人
1830年、ギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たし、400年ぶりにギリシャ人は自分たちの国家を持った。彼ら独立を果たしたギリシャ人は、自身をこれまでのようにローマ人として自己認識することをやめ、ヘレネスの近代ギリシャ語形であるエリネスを自称するようになった。
しかし、この段階では多くのギリシャ人は依然としてオスマン帝国領内に住み、コンスタンティノープル総主教を頂点としてギリシャ民族意識ではなく正教会の信仰を基盤とする共同体社会を維持していた。このことから、新独立のギリシャ国家の内側では、国外に残されたギリシャ人の居住地域をギリシャ国家の領土に回収しようとする思想、「メガリ・イデア」が生まれた。この際には現代ギリシア人が東ローマ帝国の「ローマ人」の直系の子孫であることが再度強調され、中世東ローマ帝国が小アジアを領していたことが、メガリ・イデアの根拠とされた。
第一次世界大戦にオスマン帝国が敗北し、その領土が西洋列強の手に分割されたことは、ギリシャ王国にとっては小アジアに広がるギリシャ人の居住地帯を自領に加える最大の好機をもたらした。1919年、ギリシャ軍は小アジアに上陸し、列強の同意を得て、スミルナ(イズミル)を中心とする小アジア西南部のエーゲ海沿岸一帯を占領下に置いた。しかし、ムスタファ・ケマルらによってアンカラに打ち立てられたトルコ革命政権の激しい抵抗を受け、激戦の末に1922年、ギリシャ軍はイズミルから撤退してアンカラ政府(後のトルコ共和国政府)と休戦した。
このとき、トルコとギリシャの間では住民交換協定が結ばれ、トルコ領から90万人以上のギリシャ人がギリシャへの移住を余儀なくされたが、実はトルコ人とギリシャ人の区別はかなり困難で、宗教だけを基準とせざるを得なかった。そのため、トルコ語を母語とする東方正教会信者(カラマンリ、カラマンルとも呼ばれた)もギリシャ人とされ、逆にスラヴ系やギリシャ系等のムスリムやテッサロニキ地方に住んでいたイスラム教に改宗したユダヤ人のほとんどはまとめてトルコ人として住民交換の対象となった。このため、かつては小アジアの各地に数多く住んでいたギリシャ人も、現在はイスタンブルにわずかに残るのみである。
[編集] ギリシャ系キプロス人
こうしてギリシャの領土が、縮小したもののほぼギリシャ人の居住地域と一致するようになったが、例外としてオスマン帝国の崩壊以前にイギリスの植民地となっていたキプロス島が残された。
キプロスをギリシャに併合しようとする要求は、この島に数多く住むトルコ人たちとの軋轢を生む一方、ギリシャ併合を求める過激派のイギリス当局に対するテロを頻発させた。こうしてイギリス、ギリシャ、トルコによって妥協案が検討され、1960年にキプロス島はキプロス共和国としてどの国にも属さない独立国になった。
しかし、独立後もキプロスではギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人の反目が続いた。1973年にギリシャ軍政政権の支援を受けて起こったギリシャ併合賛成派組織によるクーデターをきっかけとして、トルコ軍は本格的にキプロスに介入しキプロス島北部を占領、トルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国を建国させた。これにより、従来からのキプロス共和国政府は統治する領域が全島の3分の2に縮小し、統治する人々のほとんどがギリシャ系住民となったが、キプロス共和国、ギリシャと国際社会はキプロスの再統合を求め、トルコの対応を非難している。
[編集] アルバニアのギリシャ人
かつては東ローマ帝国領だった現在のアルバニアの南部にもギリシャ系住民が多く住んでおり、ギリシャ語が使用されている。
以上でみてきたように、現代においてはギリシャ系の人々はギリシャ共和国のみならずイスタンブルやキプロス、アルバニアまで含めて広がっており、ギリシャ人という語は、ギリシャ国籍を有する者という意味と、広くギリシャ系の人々を指す場合と、二重の意味を有している状況にある。
[編集] 関連項目
カテゴリ: ギリシャ | インド・ヨーロッパ系諸民族 | ヨーロッパの民族