コンセルタシオン・デモクラシア
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コンセルタシオン・デモクラシア、または単にコンセルタシオン(Concertación de Partidos por la Democracia)は、チリの中道~中道左派政党連合の名称である。正式には民主主義のための政党盟約(コンセルタシオン)と称する。アウグスト・ピノチェト将軍の軍事独裁政権が終わりを告げた1989年以来2006年現在まで一貫して政権を握っている。
[編集] 起源
コンセルタシオンの起源は、1988年、ピノチェト政権の延長の是非を問う国民投票に、反対派として結集した政党連合にある。信任投票はピノチェトの敗北となり、翌1989年に後任の大統領選挙が行われた。コンセルタシオンはキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンを擁立して軍政支持派に勝利した。それ以来、1993年のエドゥアルド・フレイ(キリスト教民主党)、1999年のリカルド・ラゴス(チリ社会党・民主主義のための党)、2005年ミシェル・バチェレ(チリ社会党)と、4回の大統領選挙に勝利している。
[編集] 構成政党
コンセルタシオンを構成するのは以下の各政党である。
- チリ社会党 Partido Socialista de Chile, PS
1932年にたった12日間で崩壊した「チリ社会主義共和国」の経験に基づいて、1933年に結成された。創設メンバーの一人がサルバドール・アジェンデである。1938年、左翼諸政党を人民戦線に糾合し、急進党のルイス・アギーレ・セルダを大統領に当選させ、アジェンデが保健大臣として入閣した。その後1940年代後半に人民戦線は崩壊、以降、アジェンデは社会党・共産党・左翼小党派を糾合して1958年・1964年の大統領選挙に立候補、1970年の大統領選挙で人民連合を組織してついに当選する。しかし、1973年のチリ・クーデターで政権は崩壊、社会党も激しい弾圧にさらされた。1980年代には路線対立による分裂状態を経て、次第に左派から中道左派に移行し、キリスト教民主党など中道政党との連携を強めて民政復帰を迎えた。現在は社会主義インターナショナル加盟の社会民主主義政党である。
- 民主主義のための党 Partido por la Democracia, PPD
1987年結成。もともとは、社会党がピノチェトの制定した政党法によって政党登録をするために結成した政党であったが、結果として反軍政派の幅広い勢力を結集して大きな勢力となったため、そのまま独立した政党として存続した。そのような経緯のため、党首のリカルド・ラゴス(後の大統領)は社会党と二重党籍をもっている。得票率・獲得議席とも本家の社会党より多い。
- キリスト教民主党 Partido Demócrata Cristiano de Chile, PDC
1928年、青年カトリック国民連合として結成、その後ファランヘ党というファシストばりの党名となったが、1957年にキリスト教民主党に改称。チリにおける最有力中道政党として君臨し、1964年にはエドゥアルド・フレイを大統領に当選させる。1970年のアジェンデ政権には、大統領選の決選投票では協定を結んで支援するがその後は次第に対立を深め、最後には公然とクーデターを支援するに至る。しかし、クーデターの後、軍政当局から用済みとばかりに弾圧を受けたため、激しい反軍政活動を展開するようになった。民政復帰後、初代のエイルウィンと二代目のエドゥアルド・フレイ(1964年に当選したエドゥアルド・フレイの息子)と2人続けて大統領を出した。
- 急進社会民主党 Partido Radical Socialdemócrata
1994年に急進党 Partido Radicalとチリ社会民主党 Partido Socialdemócrata de Chileが合併して結成した。チリ社会民主党はもともと左翼の小党であったが、急進党は1863年に結成され4人の大統領を出した、かつてはチリでもっとも歴史ある有力政党の一つであった。しかし社会党・共産党とともに人民戦線を結成したかと思えば、共闘していた共産党を突然非合法化したことがある。党勢も次第に縮小し、特にアジェンデ政権下でアジェンデ支持派と反対派に分裂したことで得票は激減した。17年間の軍政時代を経て民政復帰後も党勢は回復せず、社会民主党との合併後も得票率は5%以下に留まっている。