人民戦線
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人民戦線(じんみんせんせん Front Populaire f.)とは、1933年のヒトラー・ドイツの政権掌握などに代表される1930年代のファシズムの進出に対して形成された統一戦線運動のこと。フランス・スペイン・チリでは政権を掌握し、労働改革・社会改革などで先進的民主主義を実現した。
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[編集] 人民戦線が結成された国々
[編集] フランス
1932年8月、作家のロマン・ロランやアンリ・バルビュス、アンドレ・ジード、アンドレ・マルローらの呼びかけによってアムステルダム国際反戦大会が開催され、38カ国から2196人が参加し、翌33年6月、パリのプレイエル会館で第2回大会が開催された。この運動は、アムステルダム・プレイエル運動と言われる反戦反ファシズム運動として発展した(日本からは片山潜が発起人として参加)。そのような状況下の1934年2月6日、前年にドイツでナチスが政権を掌握したのに刺激されて、右翼・ファシストが議会を攻撃する事件が起こった。当時、社会党と共産党は分裂し、対立していたが、この2月6日事件を機に、反ファッショ勢力の結集と行動の統一がはかられ、社会党系の労働総同盟の提唱したゼネストに共産党系の統一労働総同盟も参加し、共同行動が発展した。これに急進社会党が加わり、1936年4月に行われた議会選挙で人民戦線派が圧勝し、社会党のレオン・ブルムを首班とする人民戦線政府の成立に至る。フランスの場合、知識人の果たした役割が大きく、有給休暇(ヴァカンス)・労働者の組合の地位向上(マチニヨン協定)・週40時間制の実施・ランジュバン・ワロンの教育改革など重要な労働・社会立法を行ったが、先に成立していたスペイン人民戦線への軍部の反乱(スペイン内戦)に対して、態度を明確に出来ず、また共産党と急進社会党が決裂したことによって1937-38年に解消されるに至った。
[編集] スペイン
1936年1月、共和主義左派・社会党・共産党・マルクス主義統一労働者党(POUM)の間で協定が結ばれ、2月の選挙で勝利して、共和主義左派のマヌエル・アサーニャを首班とする人民戦線政府が成立した。しかしその後、反ファシズム・ファシズム両勢力の間の抗争が激化し、モロッコで軍部のフランコが反乱を起こし、それをナチス・ドイツのヒトラーとファシスト・イタリアのムッソリーニが支援した。このスペイン内戦は3年間にわたり続いたが、この内戦を通じて人民戦線政府は転覆され、その後、長くフランコ独裁体制が続いた。その間、スペインは内戦状態となり、人民戦線を支援する国際義勇軍も派遣された(スペイン市民戦争)。この人民戦線政府に対しては、アナーキスト(CNT急進派)やトロツキスト(ここではPOUMも含むがPOUMは厳密にはトロツキストではない)は、「反ファッショ戦争を社会主義革命へ」と主張し、スペイン共産党はソ連の援助の下で、これらの革命派に対する粛清に狂奔した。内戦の過程で、ナチスの義勇航空隊の無差別爆撃に抗議して、ピカソのゲルニカが描かれた。またマルローの『希望』やヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』はこの時の内戦に人民戦線側から取材したものである。
[編集] チリ
1937年、急進党・社会党・共産党・労働組合などが人民戦線として結束、翌1938年の大統領選挙で急進党のペドロ・アギレ・セルダを当選させた。1941年末にアギレ・セルダが大統領在任のまま死去すると、人民戦線は民主主義同盟と改称して、引き続き急進党のファン・アントニオ・リオスを当選させた。しかし、1946年の大統領選では社会党が同盟から離脱して、独自候補をたてた。急進党と共産党は引き続き同盟を維持して、急進党のガブリエル・ゴンサレス・ビデラを当選させた。ところが、ビデラは1948年に突如として共闘相手の共産党を非合法化し、チリの人民戦線は名実ともに崩壊した。
[編集] コミンテルンの「戦術」としての人民戦線
コミンテルンから1928年に除名されたレフ・トロツキーは、ナチスが伸張していた1930年の時期にスターリンが提唱しドイツ共産党が実践していた「社会ファシズム論」(社会民主主義はファシズムの双生児であり、ファシストより優先して打倒すべき対象とする理論と方針)を批判して「ナチスと対抗する社会民主主義と共産党の統一戦線」を呼びかけた。しかし、トロツキーの呼びかけは一顧だにされず、ナチスは政権を獲得し、ドイツ共産党は弾圧により消滅する。
「反共・ソ連抹殺」を掲げるナチス・ドイツに対する危機感からスターリンは「社会ファシズム論」から人民戦線の推進に路線転換するが、トロツキーはこのスターリンの転換を「社会主義革命の全面的放棄によるブルジョア政党との野合=統一戦線の戯画化」と批判する。実際に人民戦線運動時のフランス共産党は、巻き起こるストライキ運動を「権利獲得運動」に抑え、革命に導くような方針は控えたと言える。あるいは、レオン・ブルムの首班指名に協力し、閣外からブルム内閣を協力し続けることになる。
あるいは、スペイン内戦時においては、スペイン共産党は「反ファシズム戦争を社会主義革命へ」を掲げるアナーキスト、トロツキスト(CNT急進派、POUMなど)に対して、一貫して「革命より反ファシズム戦争の勝利を優先するべき」と主張した。スペイン共産党は、共和国支配地域では「ブルジョア政党」も含めたアサーニャを首班とする人民戦線政府に参加する一方で、スペインに潜入したソ連の秘密警察の援助の下でCNT急進派、POUMなどの社会主義革命派を熱心に弾圧し数多くの活動家を抹殺する。
人民戦線運動は、1935年7月、モスクワで開催されたコミンテルン第7回大会でも評価され、コミンテルンの方針転換をもたらしたが、1939年8月、ソ連のスターリンが独ソ不可侵条約を締結することで、言わば「第一次人民戦線運動」は終結させられる。コミンテルン(スターリン)の方針は、反ファシズムよりも「アメリカ・イギリス帝国主義への反対」が強調され、コミンテルン支部の各国共産党と反ファシズム運動内部に混乱がもたらされた。
1939年のナチス・ドイツによるフランス侵攻という段階に至っても、(のちに捏造される伝説とは違って)フランス共産党は反ナチ・レジスタンス運動を開始するどころか、当初は占領当局に機関紙『ユマニテ』の発行を請願し、アナーキストやトロツキストの名簿をナチスに渡したりしている。
1941年のナチス・ドイツのソ連侵攻によって、フランス共産党も武装してレジスタンスを開始する。フランス共産党のレジスタンスは「ドイツ兵を一兵でも多くソ連から引き離せ」というスターリンの指令によって、その開始の当初からナチ将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用する。それに対するナチス側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めたことから、フランス共産党は「銃殺を恐れぬ党」としてフランス社会で権威を取り戻すことになる。また、フランス共産党は、「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ドゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調した。あるいは、レジスタンスの大衆組織として「国民戦線」(現在のルペンらの同名組織とはまったく無関係)を結成し、主に中産階級の取り込みを図った。
1944年にナチスを放逐した国民的なレジスタンス運動は、共産党の権威の高まりと相成って「ブルジョアジーすら社会主義を希求する」と言われたような状況を現出させる。しかし、モスクワに亡命していたフランス共産党の指導者・モーリス=トレーズは帰国するなりレジスタンスの武装解除を命じ、資本主義体制再建に協力することになる。
イタリアでも同様の現象が起こり、反ファシズム・パルチザンとして武装した小作農民による土地占拠と農民自治の動きをイタリア共産党は武装解除させ、イタリアキリスト教民主党との協調による資本主義体制再建に手を貸した。戦後のフランス・ドゴール政権ではフランス共産党の書記長トレーズが、またイタリアでは共産党のトリアッティがいずれも副首相として入閣した。
あるいは、この「反ファシズム世界戦争=第二次人民戦線」の時期には、イギリス支配下のインドをはじめとする植民地での民族解放運動をスターリンと植民地各国の共産党は抑圧する(インド共産党はガンジーら国民会議派に激しく反対した)。それは「反ナチス同盟」によるアメリカ・イギリスとの協調を最優先にしたスターリンの政策に基づくものであり、アメリカ共産党が広島・長崎への原爆投下を「反ファシズムの正義の行為」と賞賛し、戦後の日本共産党がGHQを「解放軍」と規定するような情況を作り出すことになる。
以上のことから、「人民戦線」戦術とは、ソ連がナチス・ドイツからの攻撃から生き残るためにボルシェビキ的な「社会主義革命」路線あるいは植民地解放路線を放棄した上で、資本家・中産階級と共産党、あるいはアメリカやイギリスなどの「帝国主義国」とソ連が協調する統一戦線政策だとするトロツキーの批判は的外れということはないだろう。
人民戦線運動は、戦後の挙国一致政権や人民連合・連合政権などの統一戦線・政党間共闘などにも継承されている。日本においては、日本共産党の「核兵器には資本家だって反対するが、反原発を言うと幅広い統一戦線が作れない(だから「反原発」を主張せず「原発の危険」に反対する)」とする80年代の「反核統一戦線」などに、この人民戦線の手法が受け継がれている。