サン・フアン・バウティスタ号
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サン・ファン・バウティスタ号, San Juan Bautista (“St. John the Baptist”, 洗礼者ヨハネ の意 ; 元々は 伊達丸 と呼ばれていた)は最初の日本製西洋型軍船で、1614年に太平洋を横断した。江戸時代の仙台藩主、伊達政宗の命を受けた支倉常長一行が徳川家康の協力を得て、ローマ教皇への謁見とイスパニア(スペイン)との貿易交渉の為、太平洋を横断した際乗船した木造船。スペイン風ガレオン船(南蛮船)の様式を取っている。
支倉常長と一行は宣教師ルイス・ソテロと共に、ローマ教皇に会う旅に出る。イスパニア領メキシコで支倉常長一行を下ろし、船は日本へ帰り、その後もう一度日本=ノビスパンを往復した。一行はイスパニア滞在などを経てローマへ至った。
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[編集] 造船
大名伊達政宗の命により1613年に建造(つきのうら港、石巻、宮城)。
- 建造日数:45日
- 造船工:800人、鍛冶:700人、大工:3000人が参加
- 排水量:500t
- 全長:55m
- 最大幅:11m
[編集] 航海
1613年10月28日に当時ノビスパン=新イスパニアと呼ばれていたメキシコのアカプルコを目指して出航、乗員180名(将軍下の侍:10名、仙台の侍:12名、日本人商人、水夫、家来:120名、イスパニア人・ポルトガル人:40名。フランシスコ会士ルイス・ソテロと、セバスティアン・ビスカイノ便乗)。船は1614年1月25日、3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。
1年間の停泊の後、仙台地域の鉱山産業の発展の為に、約50人の鉱山業・銀精製業の専門家を日本に送る。支倉はヨーロッパへ行った。
1616年9月、ルイス・ソテロの要求で再びアカプルコを目指して出航(船長:横沢将監(しょうげん))。その航海中に約100名の水夫が亡くなった。横沢も帰途に亡くなっている。
ソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し出航、1618年4月にルソン(今のフィリピン)に到着した。そこでオランダ軍への防衛を固めていたイスパニアへ売却され、イスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるがその後の消息は不明。支倉以下使節団は別の船で1620年に日本へ到着。
支倉が帰還すると、1615年の豊臣家の滅亡、支倉訪欧計画の幕府側の窓口だった徳川家康の死(1616年)、1614年の禁止令を端緒に大々的キリスト教・キリシタン(切支丹)弾圧が始まるなど日本は大々的に変化しており、日本は鎖国社会に向かっていた。
これらの迫害により、進められていたノビスパン・ルソン・欧州諸国との貿易協定も調印されなかった。支倉は2年後(1622年)に病死。
航海と訪欧の記録は、航海日誌を筆頭に全て帰国前に廃棄されており、日本側に支倉使節団とサン・ファン・バウティスタ号の航海に関する公的記録文書は残らなかった。バチカンの法王庁宝物館には、伊達政宗が「奥州王」の名で送った親書が今も保管されている。
[編集] サン・ファン・バウティスタ号 の今日
1993年に再建された。正確な設計図は残っていなかったが、寸法図はあった為に再建出来た。復元されたものは暫く石巻港に仮係留され、一般公開された後、宮城県石巻市のテーマパーク『サン・ファン館』で見ることができる。