支倉常長
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支倉常長(はせくら つねなが、元亀2年(1571年) - 元和8年7月1日(1622年8月7日))は、江戸時代初期の武士。伊達政宗の家臣。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。
仙台藩士。山口常成の子で支倉時正の養子となる。幼名は与市・六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。時正に実子が生まれたため、家禄1200石を二分し、600石取りとなる。文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。また大崎・葛西一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。
1609年(慶長14年)、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い房総の御宿海岸で座礁難破し地元の漁民達に助けられたフィリピン総督ドン・ロドリゴに、徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈り、一行をヌエバ・エスパーニャへ送還した事から日本とエスパーニャとの交流が始まっていた。そして伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人でフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れローマに赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で1613年(慶長18年)9月15日に月ノ浦を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコから陸路大西洋岸のベラクルス、エスパーニャを経てローマに至った。
1615年1月30日エスパーニャ国王フェリペ3世、同11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見するが通商交渉は成功せず、1620年(元和6年)帰国した。
日本ではすでに禁教令が出されており、失意のうちに死んだ。寛永17年(1640年)息子の常頼が、召使がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され、支倉家は断絶した。
後年、寛文8年。常頼の子の常信の代にて赦され家名を再興することが出来た。仙台藩においては主命により引き起こされた事態であるため、忸怩たる物があったようだ。
支倉常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所存在する。仙台市青葉区北山にある光明寺、支倉常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町。
常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、国宝に指定されている。その中には支倉常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。また、常長自身が記録した訪欧中の日記が文化9年まで現存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。
- 資料の中に、名をfaxikuraとつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音していた証拠となっている。
[編集] コリア・デル・リオと支倉常長
- この慶長遣欧使節団は、スペイン南西の都市セビリャ近辺にあるコリア・デル・リオに長期滞在した。この小さな港町には支倉常長を記念する銅像が建てられている。
- また、この町にはハポン(Japón=日本)姓の人が数百人住んでおり、この使節団の中で日本に帰らず現地に移住したキリスト教徒の日本人や使節の現地人水夫、その支援者の子孫であると言われている。
[編集] 参考文献
- 松田毅一『慶長遣欧使節 徳川家康と南蛮人』(新装版) 朝文社、2002年。
- 太田尚樹『ヨーロッパに消えたサムライたち』角川書店、1999年。
- 遠藤周作『侍』新潮文庫、1986年(支倉常長をモデルとした小説)。
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