スティーブ・ヒレッジ
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スティーブ・ヒレッジ(Steve Hillage、1951年8月2日- )は、カンタベリー・ロックを代表する、1960年代末より活躍しているイギリスのミュージシャンである。一般的にはソロ活動、ないしゴングとシステム7といったグループに参加したことで知れられている。
[編集] 略歴
シュテファン・シンプソン・ヒレッジ(Stephen Simpson Hillage)はロンドン・ウォルサムストウで生誕した。彼は「シティ・オブ・ロンドン・スクール」というハブリック・スクールに通っていたときにデイブ・スチュワート、モント・キャンベル、クリープ・ブロックスと共に最初のバンドであるユリエル('Uriel')を結成した(1967年のこととされる)。そのバンドは尿瓶('Urinal')に通じるということからマネジメント側から改名させられ、1969年にはアルザキル('Arzachel')というグループに発展するが、ヒレッジはそのバンドを「大学に進学する」という理由で脱退した。ヒレッジの脱退したバンドはメンバーを変えて1968年にエッグ('Egg')へと発展し、そのバンドは高い評価を得る(エッグの三枚目のアルバムである"Civil Surface"にヒレッジはゲストとして参加している)。
1971年にヒレッジは音楽界に戻りKhanを結成した(そのバンドでは友人であるデイブ・スチュワートがキーボードを担当する)。翌年にアルバム"Space Shanty"を発表するが、同じ年にグループは解散した。次に彼はケビン・エヤーズと組んだり、1973年から1974年にかけてゴングの有名な作品『ラジオ・グノーム三部作("Radio Gnome Trilogy")』にギタリストとして参加したりと様々なグループを渡り歩く。彼の名前が世界の音楽シーンに知れ渡ったのはまずゴングへの参加以降のことであろう。
しかし、1975年から彼は本格的にソロ活動に転向する。彼のソロ作品は主にゴングにおける作曲と連続性を持っており、1970年代におけるジミ・ヘンドリックス以降の展開、及びパンクロック直前の雰囲気の中で、ギタリストとして、あるいはプログレッシブ・ロック/フュージョンの作曲家・演奏家として、着実にキャリアを積んでいった。彼のアルバム"L"はトッド・ラングレンのユートピアのメンバーと録音されたものであり、さらにGreenはピンク・フロイドのニック・メイスンがプロデュースに当たった。
これら1970年代の作品は、彼の長年のガールフレンドであるミケット・ジラウディの協力を得てスタジオにおける複雑な制作技術を詰め込んだものである。フュージョンやスペイシーなギターサウンドはゴングのサウンドの延長線でもあったが、次第にシンセサイザーなどを取り入れたアンビエントな雰囲気へと変わっていく。この頃、ヒレッジはヒッピー文化の一人として見なされていたが、彼の作品の売り上げはパンクロックの到来とともに次第に下落していった。
ヒレッジはイギリス・アンダーグラウンド文化の中心であった、ロンドンのラドブローク・グローブ周辺で時間を過ごし、ホークウィンド ('Hawkwind'、アンダーグラウンドの共同体的なバンド)の結成メンバーであるニック・ターナー('Nik Turner')と仕事をした。
1979年にアンビエントな作品であるRainbow Dome Musickをリリースした後に、ヒレッジは1990年代初頭にジラウディと再び組んで'システム7'を結成した。そのバンドはまもなくロンドンのアンダーグラウンドなダンスシーンの一角を形成するようになった。彼のプログレッシブロックからテクノ/ダンスミュージックへの転向は一時期埋没しつつあった彼の存在を1980年代以降に再び評価へと押し上げることとなる。
1980年代以降、ヒレッジは録音プロデューサーとしても仕事をしている。例えばシンプル・マインズやロビン・ヒッチコックらの録音制作に就いた。1990年代では、(1995年に同名のアルバムを発表した)クリスチャンズ などのグループをプロデュースする仕事に就いた。 ヒレッジは'1, 2, 3 Soleils'とも呼ばれているraïという音楽ショーも1990年代にプロデュースしている。それはアルジェリアの歌手であるFaudel、ラシッド・タハ(Rachid Taha)、Khaledらを参加させたショーであった。1990年代中葉から、ヒレッジはギタリスト兼プロデューサーとして、主にラシッド・タハの音楽制作に加わっている。
[編集] ディスコグラフィ
- He's a little queer...
- Well, more than a little...