チョーラ朝
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チョーラ朝(Chola)(-ちょう;845年頃~1279年頃)は、南インドを支配したタミル系のヒンドゥー王朝。チョーラ朝の名が付く南インドの地方政権は、シャンガム文献と呼ばれるタミル古典文学にも記述があって、1~3世紀頃にカーヴェリ河畔のタンジャーヴールよりやや上流のウライユールに首都をおき、全インドを征服したとかセイロン遠征をして多くの捕虜を連れ帰ったというカリカーラ王の伝承で知られているが、一般的にはパッラヴァ朝の封臣であったヴィジャヤラーヤ(位846~71)がタンジャヴールに興した王朝のことを指す。なお、シャンガム文献のチョーラ朝とこれから記述するチョーラ朝と関係は不明である。
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[編集] チョーラ家の台頭と試練
チョーラ家のヴィジャヤラーヤは、パッラヴァ朝がパーンディヤ朝と抗争を繰り返す過程で勢力を拡大し、パッラヴァ朝の封臣ムッタライヤル家からタンジャヴールを奪って本拠とした。孫のアーディティヤ1世(位871~907)は、パラヴァ朝の内乱に乗じて主君のであるはずのパッラヴァ家のアパラージタを殺害し、その領地を併合した。次のバラーンタカ1世(位907年~55年)は、パーンディヤ朝の本拠マドゥライを陥落させ、セイロンの援軍も破ってパーンディヤ朝の版図を併合した。パーンディヤ王は、セイロンに逃れ、セイロンとチョーラ朝はこのことを契機に反目するようになった。しかし、949年、ラーシュトラクータ朝のクリシュナ3世は、バラーンタカ1世を破り、チョーラ朝の北部、つまりパラヴァ朝の故地の大半を併合した。このためチョーラ朝は、カーヴェリー川下流域を支配するのみの小勢力にまで落ち込んだ。965年、クリシュナ3世が没すると東チャールキヤ朝などとの協力で衰運のラーシュトラクータ朝を攻撃する一方、セイロン遠征をおこない、バラーンタカ2世(位956~73)時代にはかなりの失地を回復することができた。バラーンタカ2世を継いだのは子のラージェンドラ1世とともに英傑として知られるラージャラージャ1世(位985年~1016年)である。
[編集] ラージャラージャ1世とラージェンドラ1世の栄光
ラージャラージャ1世は、パーンデイヤ朝とケララ、セイロンの連合勢力を破り、セイロンの北半分を併合、支配した。デカン高原にラーシュトラクータ朝に代ってカリヤーニのチャールキヤ朝が興ると、カリヤーニのソーメシュヴァラ1世とヴェンギの東チャールキヤ朝の宗主権をめぐって勢力争いを起こすことになった。西部デカンを支配するカリヤーニのチャールキヤ朝にとっては、東チャールキヤ領のカリンガ(現オリッサ地方)は、良港に恵まれ、穀倉地帯であり、さらに南下して勢力拡大するための拠点となる要衝であった。裏を返せばチョーラ朝にとっては、北インドへ進出するための重要な通路ということになる。東チャールキヤ朝は、10世紀以降、王族間の争いのため、一時的に断絶していたがこれを奇貨としたラージャラージャ1世は東チャールキヤ家のシャクティヴァルマン1世を擁立して再興した。またシャクティヴァルマンの弟、ヴィマラーディティヤに娘クンダヴァーを嫁がせた。クンダヴァーは後のラージェンドラ1世の妹にあたる。ラージャラージャ1世は、遠い血縁を主張してヴェンギに攻め込んだチャールキヤ軍の虚をついて都カルヤーニを直接攻撃して、これを破り、クリシュナ川を越える地までを事実上の支配下におさめ、東チャールキヤ朝の宗主権の確保に成功した。また、ケララを支配下に収めたラージャラージャは、台頭著しいアラブ商人に対抗して西方貿易の利を確保するため海軍をおくってモルディヴ諸島までも征服した。ラージャラージャ1世は、首都に多くのシヴァ、ヴィシュヌ寺院を建設したが、そのうち世界遺産でもあるブリハディーシュワラ寺院(当時は王の名をとってラージャラージェシュワラ寺院と呼ばれた)は1010年に完成した。また1013年には、北宋に通商のための使者をはじめて送っている。子のラージェンドラ1世(位1016年~44年)はガンジス河畔まで遠征軍を送ったり、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国に1017年と1025年に海軍を遠征させるなどチョーラ朝は勢威を示した。ラージェンドラ1世の時代に、チョーラ朝はインド洋から中国に至るまでの制海権を支配し、貿易の利を独占した。
[編集] 東チャールキヤ朝との合併と周辺諸国との争い
その後もチョーラ朝はその版図を維持し、ヴィーララージェンドラ(位1063年~69年)のときにシュリーヴィジャヤ王のためにスマトラ島のケダーで起こった反乱を鎮定している。1070年、チョーラ朝の王位が空位になるとラージャラージャ・ナレンドラの子で当時東チャールキヤ王であったラージェンドラ2世は、クロトゥンガ・チョーラ1世(位1070年~1118年)としてチョーラ王も兼任した。以後、東チャールキヤ王家は、チョーラ朝と一体となる。ところでカルヤーニのチャールキヤ朝ではソーメシュヴァラ2世が王であったが、弟のヴィクラマディーティヤ(6世)は納得せず、王朝の版図の南側に拠点を築いて独立した。クロトゥンガ1世は、ソーメシュヴァラ2世を支援したが、1076年頃、ヴィクラマディーティヤ(6世)は、ついに兄王ソーメシュヴァラ2世を捕らえて自らが即位することになった。ヴィクラマディーティヤ6世によって、チョーラ朝はヴェンギの内政に干渉され、一時的ではあるがこの地の支配権を奪われた。またセイロンで反乱が起こって失われ、マイソールに興ったホイサラ朝やパーンデイヤ朝に攻められるなど厳しい状況にさらされたが、内政につとめて一定の治績をあげ、王朝の安定に努めた。 1077年に宋に送った通商使節は、70人に達し、中国側には「ガラス器、樟脳、綿織物、犀の角、鹿の角、象牙などの品々が捧げられ、81800本分の銅貨を下賜した。」という記述が残されている。
[編集] チョーラ朝の衰退と滅亡
その後、チョーラ朝は、優れた寺院建築を残したもののじわじわと衰え、地方領主層の台頭が目立つようになってくる。その間、チョーラ朝は、セイロンとパーンディヤ朝の宗主権をめぐって争っていた。12世紀末、クロトゥンガ3世(位1178年~1218年)は、ホイサラ朝と同盟して3度パーンディヤ朝に攻め込みマドゥライを陥落させるなど、勢力回復につとめたが、かえってホイサラ朝の自国領内への介入を許すことになった。クロトゥンガ3世の死後、チョーラ朝はすっかり弱体化し、ホイサラ朝は、カンナヌールまで勢力下に収め、北方のカーカティヤ朝や南方のパーンディヤ朝も加えての草刈り場と化した。1279年に仇敵のパーンディヤ朝によって滅ぼされた。
[編集] チョーラ朝の統治機構、社会の様子
チョーラ朝の王の権威は強力で、王に助言するための大臣の会議、身辺警護兵がいた。また、「三つの足」と称せられる戦象部隊、騎兵部隊、歩兵部隊のほかに強力な海軍をもっていた。海軍は、ラージェンドラ1世時代には、モルジブ諸島 、マラバール海岸、コロマンデル海岸、ベンガル湾全域、スマトラ島付近までの海域を支配できるほど強力であった。国内は、9つのマンダラムと呼ばれる州に区分され、しばしば王子たちが長官に任命された。マンダラムは、バラナードゥとかコータムと呼ばれる区域で分けられ、バラナードゥやコータムは、さらにナードゥに区分された。ナードゥは、数十箇所かあるいはそれ以上の数の村落によって構成されていて、村落寺院に残る刻文によって当時の様子についての情報をある程度得ることができる。チョーラ時代の村落は、バラモンに与えられたブラフマデーヤ村落とそれ以外の村落があって、前者には、サバイ、後者にはウールと呼ばれる自治的共同組織があった。サバイについての研究はS.Krishnawami Aiyangarなどの研究者によってその自治的機能が優秀であったことが明らかにされている。つまりブラフマデーヤ村落は、地租を免除されるかわりに地租の査定や徴集を行うための組織や治安維持や裁判を行うための組織、治水、潅漑を統御して各村落や畑に水の配分をおこなう組織があって、一般的な村落では、農民たちが土地を共同保有し、共同で耕作を行い、ウールの会議によってさまざまな細かい取り決めをしていたので、王権との強い結びつきのあったバラモンのもとにあるブラフマデーヤ村落はほかの村落をまとめてその地方の統治秩序や生産活動を先導する役割を担っていたと考える研究者や中央集権的ではなくカーストやそれに関連する職業ごとの社会的組織などが社会を統合する機能を担っていて、官僚への給与の支払いに税収をもたらす土地を割り当てたことからも緩やかな封建制であったと考える研究者もいる。チョーラの王たちは、交易の振興や軍用道路として道路網の整備 を行い、カーヴェリー川などの河川から潅漑用の水路がひかれ、多くの貯水池がつくられた。また地租を徴集するために その適切な課税額を把握するため、一種の検地が行われた。また、特筆すべきなのは、道路網の整備や海軍の警察力によって北インドやジャワやスマトラ方面にまで交易活動をおこなうような商人ギルドが存在したことである。
[編集] 参考文献
- 『アジア歴史事典』6(タ~テ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1960年