シュリーヴィジャヤ王国
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シュリーヴィジャヤ王国(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya)はインドネシアやマレー半島、フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。中国語では室利仏逝という。王国の起源ははっきりしないが、7世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置をしめるようになった。
シュリーヴィジャヤ王国は現在のパレンバンを拠点とする沿岸貿易の中心であった。この海上帝国はスマトラ島からマレー半島に跨る連合国家で、中国やインドとも通商をおこなった。旅行者の記録ではスマトラ沿岸部では金貨が流通していたが、内陸部には及んでいなかったとしている。
タイ南部のスラーターニー県にあるチャイヤーが少なくともシュリーヴィジャヤの一時的な首都であったと主張する歴史家もいるが、この主張には多くの異議が唱えられている。しかしながら、チャイヤーはたぶん王国の地域的な中心ではあっただろう。チャイヤのボーロマタート寺院にはシュリーヴィジャヤ様式で再建されたパゴダがある。
中国語(『新唐書』)では室利仏逝(Sribhoja)と書かれている国が古マレー語碑文にいうシュリーヴィジャヤだと気付いたフランス人歴史学者ジョルジュ・セデスによって1920年代に再発見された。
[編集] 歴史
シュリーヴィジャヤに文化的影響を与えたのは最初はインドのヒンドゥー教であり、仏教はスマトラに425年までに伝来した。500年ごろシュリーヴィジャヤ王国の根源が現在のパレンバン辺りで発展し、600年ごろの中国の記録にはジャワ島の3つの王国と同じ様にジャンビとパレンバンを根拠としたスマトラの2つの王国について触れている。
689年から695年まで唐の僧、義浄がパレンバンを訪れていた。彼の記録は初期のシュリーヴィジャヤについての貴重な資料の一である。同じ時期、7世紀から9世紀にかけて貿易や征服を通じて地方の支配を始め、ジャンビ王国を乗っ取った。王国はマレー文化がスマトラ島やマレー半島、ボルネオ島西部のあらゆる所に拡散するのを助長した。クディリ朝のダルマヴァンシャ王は、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止しようと、992年からマレー、スマトラ各地に侵攻した。しかし、1016年に地方領主の一人ウラウリ王の反乱によって、ダルマヴァンシャが殺害された。その背後に、シュリーヴィジャヤの力が働いていたのではという説もある。1025年に南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の軍勢の遠征でシュリーヴィジャヤは打撃を受けて衰退した。スマトラ島はジャワのシンガサリ朝、続いてマジャパヒト王国からの征服にさらされた。同時期、アラブやインドの商人との接触を通じて広まったイスラム教徒がスマトラ島の地方にアチェ王国を建国した。13世紀の後半までに、サムドラ王国の君主はイスラム教徒に改宗した。同じ頃シュリーヴィジャヤ王国はクメール王朝の、後にスコータイ王朝の属国になった。
1414年までにシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラがイスラム教に改宗し、マレー半島のマラッカでスルタン制が始まった。マラッカ王国は1511年8月24日にポルトガルによって征服された。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: スマトラ島 | マレー・インドネシア史