デュッセルドルフ
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紋章 | 地図 | ||||||
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基本情報 | |||||||
連邦州: | ノルトライン=ヴェストファーレン州 | ||||||
行政管区: | デュッセルドルフ行政管区 | ||||||
地域連合: | ラインラント地域連合 | ||||||
郡: | 郡独立市 | ||||||
緯度経度: | 北緯 51度13分32秒 東経 06度46分58秒 |
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標高: | 海抜 38 m | ||||||
面積: | 217.0 km² | ||||||
人口: | 581,858(2006年12月31日) | ||||||
人口密度: | 2,675 人/km² | ||||||
郵便番号: | 40210–40629 (旧: 4000) | ||||||
市外局番: | 0211、(一部 0203、02104) | ||||||
ナンバープレート: | D | ||||||
自治体コード: | 05 1 11 000 | ||||||
UN/LOコード: | DE DUS | ||||||
市の構成: | 10 市区、49 小街区 | ||||||
市庁舎の住所: | Marktplatz 40213 Düsseldorf |
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ウェブサイト: | www.duesseldorf.de | ||||||
行政 | |||||||
上級市長: | ヨアヒム・エルヴィン (Joachim Erwin) (CDU) | ||||||
負債: | 977,100,00 € 1683 €/人 (2005年1月1日現在) |
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住民 (2003年12月31日現在) | |||||||
失業率: | 12.9 % (2007年1月1日現在) |
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外国人: | 16.8 % | ||||||
年齢構成: |
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デュッセルドルフ(Düsseldorf)は、ドイツ連邦共和国の都市。ノルトライン=ヴェストファーレン州の州都。ルール工業地帯の中核となる都市で、日本企業の進出も盛ん。郊外のネアンデルタールでは、ネアンデルタール人の骨が発掘された。人口は約58万1千人(2006年)。
目次 |
[編集] 地勢・産業
ルール工業地帯の中核となる都市であり、工業が発展している。様々な企業の本社がおかれ、日本企業も多くこの都市に進出しているため、日本総領事館などのあるインマーマン通りは日本人街の様相を呈している。約9万人の外国人が居住しており、その16パーセントあまりはトルコ人である。また、日本人も外国人人口の5%あまりを占める。近隣の都市としては、約55キロ北西のドルトムント、ライン川沿い約25キロ北に位置するデュースブルク、約35キロ南のケルン、60キロ南のボンなどが挙げられる。1971年にはデュッセルドルフ日本人学校も開校。1990年前後には生徒数1000名近くにまで達したが、バブル後は日本企業の撤退と共に減少(小学部・中学部/合計)。
[編集] 歴史
デュッセルドルフ郊外のネアンデルタール(市中心部から東へ約10km、メットマン市とエアクラート市の間)では、先史時代のネアンデルタール人の骨が発見された。(発掘は1856年。)デュッセルドルフの街は、12世紀より文献にその存在が確認され、ベルク伯領のもとで1288年に都市特権を得た。1815年よりプロイセン領となり、産業革命の進展とともに発展した。第一次世界大戦後の1921年、ドイツの賠償金支払い遅延などを理由に、フランス・ベルギー軍がデュッセルドルフを軍事占領した。(この際、近隣のデュースブルクも占領されている。)その2年後には、ルール地方のほぼ全域を占領されたが、1925年までに撤退した。第二次世界大戦後は、まずアメリカ、その後イギリスの軍政下におかれた。1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立すると、ノルトライン=ヴェストファーレン州の州都に定められた。
[編集] 建築物
- ライン塔 Rheinturm
- ベンラート城 Schloss Benrath
[編集] 有名な出身者
- ノルベルト・ブルクミュラー - 作曲家。
- フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ - 哲学者、著作家。ユダヤ系。
- フローリアン・シュナイダー - クラフトワーク創設者の一人。
- ハインリヒ・ハイネ - 詩人、作家、ジャーナリスト。ユダヤ系。
- ジョン・ハーツ - 国際政治学者。ユダヤ系。