ケルン
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紋章 | 地図 |
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ケルン市の旗 | |
Basisdaten | |
連邦州: | ノルトライン=ヴェストファーレン州 |
行政管区: | ケルン行政管区 |
地域連合: | ラインラント地域連合 |
郡: | 郡独立市 |
面積: | 405.15 km² |
人口: | 983,347 (2005年12月31日現在) |
人口密度: | 2,427 人/km² (2005年) |
標高: | 海抜 37.5–118.04 m |
郵便番号: | 50441–51149 (旧: 5000) |
市外局番: | 0221、02203、02232、02233、02234、02236 |
ナンバープレート: | K |
自治体コード: | 05 3 15 000 |
UN/LOコード: | DE CGN |
公式ウェブサイト: | stadt-koeln.de |
行政 | |
上級市長: | フリッツ・シュラマ (Fritz Schramma) (CDU) |
Strukturdaten | |
負債: | 2,560,000 € (2003年) |
失業率: | 13.3 % (2006年5月31日現在) |
外国人: | 17.2 % |
年齢構成: | 0-18 歳: 15.8 % 18-65 歳: 67.5 % 65 歳以上: 16.7 % |
ケルン(Köln)は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市。ローマ帝国によってローマ植民市として建設されたライン川中流の古市であり、ケルンの名はラテン語で植民市を意味する Colonia から由来する(現在でもイタリア語やスペイン語ではこの名前が使われており、英語やフランス語のCologneも同源である)。ケルン大司教は選帝侯のひとりであり、ケルンは古代から現代に渡って交易と地域政治の中心として栄えてきた。
現在では国際的な見本市や展示会が行われる産業都市の側面も持つ。ユネスコ世界遺産に登録されているケルン大聖堂が町のシンボルであり、ドイツ最大のカーニバルを行うことでも観光地としても人気がある。
目次 |
[編集] 地勢
ライン川の河畔に位置しており、陸上、水上交通の要所である。重工業が発展する一方で、オーデコロン(「ケルンの水(仏:Eau de Cologne)」)の生産地としても有名。近隣の都市としては、約25キロ南にボン、10キロ北にレバークーゼン、35キロ北にデュッセルドルフが位置する。空港はケルン・ボン空港を西ドイツの首都だったボンと共用している。
[編集] 歴史
[編集] 古代
紀元前39年、ローマとの合意に基づき、親ローマのゲルマニア人部族ウビイイ族がライン川の西岸に入植した。その入植地オッピドゥム・ウビオールム(ウビイイ人の町)は、ローマ軍宿営地となり、ゲルマニア州におけるローマの拠点となった。
紀元50年、皇帝クラウディウスの妻アグリッピナは、自分の出生地オッピドゥム・ウビオールムをローマ植民地に格上げするよう、要望した。こうしてコローニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシスまたはコローニア・アグリッピナがおかれた。
アウグスタと呼ばれたトリアーに次ぎ、ローマ帝国のゲルマニア支配の拠点として重要な地位を占めたケルンには、多くのローマ遺跡が見られる。80年には水道橋が建設された。1世紀末には、アグリッピナは属州下ゲルマニアの首都となった。この当時の人口は4万5千人ほどであった。
355年から、サリ族に属するフランク族が10年の間ケルンを包囲した。455年フランク族は最終的にケルンを落とし、これを首都とした。
[編集] 中世
ローマからはキリスト教も早くから伝播した。ケルンには4世紀に司教座がおかれ、のち8世紀末には大司教座が置かれることとなる。
ケルンの初代主教はマテルヌスといい、ケルンに最初の大聖堂を建てたといわれる。794年に最初の大司教が任命された。ケルン大司教はサクソンやフランクの宮廷で王の助言者となった。
大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教に帰属する宗教領邦となった。大司教座附属学校がおかれたケルンは、政治のみならず文化の中心となる。特にドミニコ会がおいたケルン大司教管区の神学大学ではアルベルトゥス・マグヌスやマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義した。マイスター・エックハルトによってケルンはドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなる。
13世紀に入ると、都市の市民と、ケルン大司教の間でたびたび緊張が生じるようになった。1288年にケルンが自由都市の資格を得ると、ケルン大司教はケルンからボンへ住居を移し、1821年までケルンに帰ってこなかった。
[編集] 近世
三十年戦争後、一時期衰微をみたケルンであったが、その後次第に復興し、19世紀にはケルン大聖堂の増築と完成を見るに到る。ケルン大聖堂の完成の大きな要因はゲーテにより招来されたゴシック様式の見直し、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルである。 しかしこの動きは必ずしも宗教的権力の強化を意味しない。フランス革命後の世俗化傾向は、選帝侯制度の廃止のみならず、宗教領邦としてのケルン大司教座領の廃止に帰着する。 以後ケルンは、ライン川流域の一世俗都市として、商業の中心地として繁栄していく。
[編集] 近代
[編集] 現代
第二次世界大戦に際しては、激しい空爆を受けて街の大部分が破壊された。その後復興を果たし、今日へと至っている。
[編集] 観光名所
ケルン市内中央部は、第二次大戦の空爆によりほとんどの建物が破壊されたため、市街地は1950年代に戦前の通りの名や建物を受け継いで再興された。いくつかの戦前の建物も残っており、市内の名所となっている。
- ケルン大聖堂(Kölner Dom):1248年に着工し、500年以上の年月を経て1880年に完成した、ケルンの町のシンボル。ユネスコ世界遺産にも登録されている。
- ロマネスク教会
- ケルン・メッセ
- ヴァルラーフ・リヒャルツ博物館(Wallraf-Richartz Museum)
- ローマ・ゲルマン博物館(Römisch-Germanisches Museum)
- チョコレートミュージアム(Schokoladenmuseum):「Imhoff-Stollwerck-Museum」が公式の名。
- ホーエ通り(Höhe Strasse):市内中央部のショッピングストリート。
[編集] 文化
[編集] スポーツ
- ブンデスリーガ所属のプロサッカーチームである1.FCケルンの本拠地。ライン・エネルギエ・シュタディオンを本拠地とする。
- バスケットボール・ブンデスリーガ(ドイツプロバスケットボールリーグの1部)に所属するラインエネルギエ・ケルンの本拠地。
- 2006年ドイツ FIFAワールドカップの開催都市の一つであり、シュタディオン・ケルン(ライン・エネルギエ・シュタディオン)にて試合が行われる。
- F1のトヨタチームのファクトリーがある。
[編集] 姉妹都市
他の市町村との合併を通じて、ケルン市は以下の都市とも姉妹都市関係にある。
ベンフリート/キャスル・ポイント (イギリス), イニィー (フランス), ディーペンベーク (ベルギー), ブリーヴ・ラ・ガーヤード (フランス), ダンステブル (イギリス), アイゲルスホーフェン (オランダ) 及びアゼブルク (フランス).
[編集] 関連項目
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