トマス・ロバート・マルサス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus,1766年2月17日-1834年12月13日)はイギリス経済学における〈古典派〉の代表的経済学者、人口学者。リカードの親友で、かつ最大の論敵として知られる。
[編集] 生涯と学説
豊かな家庭に生まれ、父親はヒュームの友人、ルソーの知人でもあった。自宅での養育を経てケンブリッジ大学のジーザス・カレッジへ入学する。在学中、朗読、ラテン語、そしてギリシャ語について賞をもらった。当時の主な研究テーマは数学で、修士号の取得後フェロー職に選出されてもいる。1798年サリ州のアルバリ(Albury)の副牧師となり、のちヘーリバリ(Haileybury)の東インド会社附属学院の近代史および経済学教授となる(1805年来)。遺伝性の口唇口蓋裂症の持病があったため、1833年まで肖像画を残そうとしなかった。(現存の肖像画ではうまく修正されている。)マルサスは1804年に結婚、3人の子供を設けている。
ゴドウィンの 《政治的正義 Political justice 1793年》などに見られる社会主義思想を批判して、主著『人口論 An essay on the principle of population as it affects the future improvement of society,1798年』を書き,理想社会の実現に関する見解を発表した。彼の〈人口法則〉によれば人口の自然増加は幾何級数をたどるが、生活資料は算術級数で増加するに過ぎないから、この過剰人口による貧困の増大は避けられない、これに対する唯一の方策は,同書第二版(1803年)に説かれているように、禁欲を伴う結婚年齢の延期、即ち〈道徳的抑制〉である。この学説は、人間の不幸を宿命論的な自然法則の結果であるとし、これにより資本主義社会の矛盾を合理化して社会改革思想に反撃を加えたものである。この第一版では、疫病・戦争・飢饉を過剰人口への自然による救済であると示唆したため、社会から広く反発されたが、マルサスとしては、論理のおもむくところをそのままに表現したにすぎなかったであろう。
また彼の『経済学原理 Principles of political economy,1820年』は,リカードに反対して富・労働・価値・差額地代・恐慌などに関する自説を述べたものであるが、地主および資本家を擁護する立場をとっている。リカードの説く貿易による産業進歩を善きものと見ることができない、反動的な経済学説とも言えるが、一方、20世紀になって恐慌の原因として注目されるようになった〈過剰貯蓄〉の説がすでにマルサスによって考えられている。つまり、「利潤の中に消費されない貯蓄が生まれ、すべての所得が消費に回るとは限らない」という知見である。これが過剰生産と過少消費、恐慌の原因であるとマルサスは考えた。しかし、マルサスとの往復書簡の中でリカードは、過剰生産は一時的な現象であり、貯蓄や遊休資本は適切な産業へ速やかに移動することで解消されうる、と反論する。そのリカードの恐慌論(というより、恐慌は自由放任経済のもとでは長続きできないという見解)が主流となったため、ホブソンとケインズが採りあげるまでは、〈過剰貯蓄〉の含意は古典派経済学では葬り去られた。
- マルサスの経済学についてカーライルが、経済学を「陰鬱な科学」と呼んだという説があるが、カーライルのこの言葉はジョン・スチュアート・ミルのエッセイに対するもので、マルサスの著作に直接向けられたものではない。
[編集] 【主著】
前記のほか:
- Observation on the effects of the Corn Laws,1814;
- An inquiry into the nature and progress of rent,1815;
- The grounds of an opinion on the policy of restricting the importation of foreign corn,1815;
- The measure of value stated andillustrated,1823
- Definition in political ecconomy,1727
[編集] 外部リンク
カテゴリ: イギリスの経済学者 | 19世紀の社会科学者 | 1766年生 | 1834年没