トヨタ自動車蒲田工場
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トヨタ自動車蒲田工場(トヨタじどうしゃかまたこうじょう)は、日本の自動車メーカートヨタ自動車が、東京都蒲田区(1947年3月より大田区)の蒲田に1947年1月から1950年までの4年間、トラック再生修理業務をおこなうために操業していた工場である。
[編集] 概要
[1]太平洋戦争敗戦後の米軍占領期にGHQによりトヨタ自動車にトラック生産が許可されたが、資材不足により新車生産は思うようにできなかった。トラックの再生修理をはじめたところ好評となり、東京地区での本格的再生修理工場として、1947年1月、米軍に接収されていた日本内燃機の蒲田工場を賃借りし、人員を現地採用しトヨタ自動車蒲田工場として業務を開始した。
[1]戦後のインフレーションはドッジ・ラインにより収束したがさらにデフレーションを引き起こし、1949年にはトヨタ自動車も経営が悪化した。1949年4月に労働組合法の改訂に対する反対により労働争議(ストライキ)も始まっている。10月に日産自動車、いすゞ自動車が人員整理をおこなった。企業再建整備計画により12月にはトヨタ自動車電装品部門が独立し日本電装が設立された。同じ12月にトヨタは人員整理はしないという覚書での労使双方の合意がおこなわれた。翌年1950年4月には経営再建案が発表され、販売部門独立でトヨタ自動車販売株式会社が設立される。また、1950年6月には、経営陣の引責辞任がおこなわれ、トヨタ自動車社長は豊田喜一郎から石田退三となる。同月に朝鮮戦争が勃発し朝鮮特需に向かうこととなるが、この1950年に、蒲田工場も閉鎖となった。足掛け4年の操業だった。この4年間の従業員が中心となり神奈川県相模原市にセントラル自動車が設立されている[2]。
蒲田工場自体は引き続きGHQが管理し、1953年になって開放され、戦前から操業していた日本内燃機蒲田工場として業務再開した[3]。