ドイッチュラント (戦艦)
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性能諸元 | |
排水量: | 基準:13,191トン 常備:14,218トン |
全長: | 127.6m 水線長:125.9m |
全幅: | 22.2m |
喫水: | 8.22m |
機関: | 石炭専焼缶12基 三段往復機関3基3軸推進 16,000hp(公試時:16,990hp) |
最大速: | 18ノット(公試時:18.6ノット) |
装甲: | 装甲帯 9.4", 砲塔 11", 甲板 3" |
航続距離: | 4,800海里(12ノット時) |
兵員: | 士官38名、兵員708名 |
兵装: | 1904年型28.3cm(40口径)速射連装砲2基 1904年型17cm(40口径)単装砲18基 88mm(40口径)単装砲24基 45cm水中魚雷発射管6基 |
装甲: | 舷側:240mm(水線面上部主装甲)、203mm(主装甲よりも上部)、75mm(艦首尾部) 甲板:-mm 主砲塔:300mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋) 副砲塔:140mm(砲枠)、170mm(ケースメイト部) パーペット部:280mm 司令塔:300mm |
ドイッチュラント (SMS Deutschland)は、第一次世界大戦のドイツ帝国海軍の戦艦。ドイッチュラント級戦艦のネームシップ。 第一次世界大戦後ベルサイユ条約の軍備制限下に建造された同名の軍艦がある。これについてはドイッチュラント級装甲艦を参照。
目次 |
[編集] 艦歴
[編集] 第一次世界大戦
5隻とも第一次大戦直前の1906年から1908年に竣工したが、時既に英国でドレッドノート級戦艦が竣工しており、すでに弩級戦艦時代が始まっていた。ドイッチュラント級は完成した時点ですでに旧式化していたので、活躍の場が無かった。殷々と砲声が轟き、濛々と爆煙がたなびく。史上最大と言われる海戦の一つ、1916年5月31日~6月1日の第一次ユトランド沖海戦にドイッチュラント級戦艦の出番はなかったのである。
ドイッチュラント級戦艦は第2戦隊第4戦艦隊の一員として、濛々たる黒煙を吹き上げつつ、ラインハルト・シェーア大洋艦隊司令長官の旗艦「フリードリヒ大王」を懸命に追いかけたが、レシプロ機関の準弩級戦艦は最高速度18ノットの鈍足で、高速の大洋艦隊主力部隊は鈍足のドイッチュラント級に合わせて速度を制限せざるを得ず、足手まとい以外の何者でもなかった。撤退の際にもドイッチュラント級戦艦はまるで役に立たず、英国艦隊に追い回されて必死に逃げ回るのみだった。黒煙を頼りに先行する主力艦隊を追っていたポンメルンが英国駆逐艦の雷撃で爆音と火柱と共に轟沈した。結局の所、第一次世界大戦においてドイッチュラント級戦艦は能力不足で用をなさず燃料の無駄遣いにのみならず、艦隊行動を阻害しただけに留まった。
[編集] 第一次世界大戦後の状況
ドイッチュラント級戦艦はその後、1917年8月には戦艦としての任務を解除されてしまった。しかし、時代の潮流は老嬢にも余暇を与えてはくれず、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命してドイツ帝国は瓦解した後、第一次世界大戦の終結後にベルサイユ体制下でワイマール共和国海軍にて保有を認められたのは準弩級戦艦の6隻のみで、ドイッチュラント級は戦艦籍に復帰して、新生ドイツ海軍の中心となったが、戦間期ということもあって目立った活躍は無かった。ドイッチュラントは1917年に兵装を撤去され、宿泊艦に類別されたまま軍艦籍には戻れず、状態不良であったため1922年にヴィルヘルムスハーフェンにて解体された。
[編集] 同型艦
- ハノーファー
- ポンメルン
- シュレジェン
- シュレスヴィヒ・ホルシュタイン