ニコライ・ゴーゴリ
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ニコラーイ・ヴァシーリヴィチ・ゴーゴリ(Николай Васильевич Гоголь,1809年3月31日-1852年3月4日)は、ウクライナ生まれのロシアの小説家、劇作家。『死せる魂』などの小説で知られる。ウクライナ語名ではムィコーラ・ホーホリヴァシーリョヴィチ・(Микола Васильович Гоголь)で、父はウクライナ語作家のヴァシーリ・ホーホリ。
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[編集] 生涯
ウクライナのソロチンツィで生まれる。1828年にサンクトペテルブルクに移り、1831年、アレクサンドル・プーシキンと会う。プーシキンはゴーゴリの才能を評価し、以後、親交を持った。1834年から1835年までペテルブルク大学で歴史を教える。その後、ペテルブルクを舞台にした『ネフスキー大通り』や『狂人日記』、『外套』、『鼻』などの短編を書いた。1836年に発表した『検察官』によってその名は広く一般に知られるところとなるが、その皮肉的な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリはローマへ発った。
ゴーゴリはその残りの人生の大部分をドイツとイタリアで過ごした。その頃の手紙によって、ゴーゴリには同性愛的傾向があったことが分かっている。しかし、恋人の突然の死を経験。その事件が彼の後半生にどのような影響を与えたのかについては未だ謎が多い。『死せる魂』を書いたのはこの頃のことであり、その第一部は1842年に刊行された。1848年、次第に信仰を深めていたゴーゴリはエルサレムへ巡礼に旅立つ。エルサレムより戻った後、聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと、信仰生活のために文学を棄てることを決心し、書き溜めてあった『死せる魂』の第二部を焼いてしまう。彼がモスクワで歿したのはその10日後、1852年3月4日のことだった。『死せる魂』の第二部は、その一部が残されており、刊行されている。
[編集] 解釈・評価
ゴーゴリの作品には、ロシア文化における西欧派とスラヴ派(民族主義派)の分裂・相克が映し出されている。その時代、帝政への不満を持つ改革者たちが、社会を皮肉な目で見つめるゴーゴリの作品を正当なものと受け容れた。その時代の自由主義者としてではないにしろ、ゴーゴリ自身も社会改革を志向していた。
ゴーゴリに『死せる魂』を書かせたのは、ロシアを変えたいという思いであったことは確かであるが、それが道徳的な意味であるのか、政治的な意味であるのかは一見はっきりしない。『死せる魂』の第一部は主人公の過ちを、第二部はその矯正を描く。
ロシアの道徳的変革への思いは年を追うごとに声高になり、晩年には狂信的な論文を発表するに至って、それまで彼を支持していた自由主義者たちも戸惑うことになった。
彼のモデルとなったのはエルンスト・ホフマンの文学で、それにしばしば空想が加味された。ゴーゴリが生きたのは政治的な検閲が厳しかった時代であり、空想的要素は検閲に対する目くらましであった。また、ゴーゴリの一連の作品ははなはだ滑稽であり、そのユーモアや現実主義、空想、独特の文体が人々に愛された。
その後のロシア文学にゴーゴリが与えた影響はきわめて大きい。1920年代に、ホフマンの作品の登場人物の名を借りてつくられた文学サークル『セラピオン兄弟』は有名である。エヴゲニー・ザミャーチンやミハイル・ブルガーコフ、アブラム・テルツなどはその伝統を強く意識していた。
また、日本文学にも強い影響を与え芥川龍之介の作品『芋粥』は導入部分が、ゴーゴリの『外套』に酷似している。
[編集] 作品(一部)
- 『ミルゴロド』(短編集, 1835年)
- 『ネフスキー大通り』(1835年)
- 『狂人日記』(1835年)
- 『肖像画』(1835年)
- 『鼻』(1836年)
- 『検察官』(1836年)
- 『ローマ』(1841年)
- 『死せる魂』 第一部 (1941年)
- 『外套』(1842年)