バシキール人
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バシキール人は、主としてロシア連邦のバシコルトスタン共和国に居住する民族。自称はバシコルト。1989年のデータで、ソ連領内に144万9千人が居住していた。
人種的には、モンゴロイドとコーカソイドの混血。バシキール語は、アルタイ語族に属し、ブルガル・キプチャク語群と関係を有している。主要宗教は、イスラム教スンニー派。
[編集] 歴史
7世紀~8世紀、バシキール人の祖先は、遊牧国家ペチェニェグの下に構成遊牧民の一部として統合されており、カスピ海沿岸及び北カフカーズのステップに居住していた。
9世紀~10世紀、南シベリア、中央アジアのテュルク系諸民族(マジヤル人、ブルガル人、ペチェニェグ人、ペルミ・ウグル人)は、バシコルト連合に統合された。922年、アラブ人のイブン=ファランは、バシキール人中において、イスラム教よりもシャーマニズムが優勢だったことを指摘した。
11世紀~13世紀、バシキール人のオグズ系とキプチャク系の2派への分化が認められた。1236年から、キプチャク・ハン国に併合された。
キプチャク・ハン国の崩壊と共に、15世紀前半、カザン・ハン国の北西部、西シベリア・ハン国の北東部、ノガイ・オルダの南部及び中央部に3分された。
ロシアによるカザン・ハン国の征服(1552年)と併合(1557年)後、1662年~1664年、1675年~1683年、1705年~1711、1735年~1740、1755年に5度の反露蜂起が起きた。ロシアによるトルキスタン併合後は、タタール人の通訳の役割で統治機構に組み入れられた。17世紀~18世紀、カルムイク人の一部と中央アジアのサルト人の一部がバシキール人中に同化した。
1917年のロシア革命の際には、アフメト・ゼキ・ヴェリディら、バシキール人民族主義者らによりバシキール人の独立運動が行われたが、ソビエト政権の攻撃により、独立運動は解体された。
1937年、ロシアの構成下でバシキール自治共和国憲法が採択された。バシキール自治ソビエト社会主義共和国は、ヴォルガ川中流とウラル山脈の間に位置する。
1990年10月、バシキリアは、主権国家バシコルトスタンを宣言したが、ソビエト連邦の解体に伴い、1992年3月31日よりロシア連邦の構成共和国となった。