ソビエト連邦
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- ソビエト社会主義共和国連邦
- Союз Советских Социалистических Республик
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←1922年 - 1991年 ↓ (国旗) (国章) - 国の標語 : Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
(ロシア語: 万国の労働者よ、団結せよ!) - 国歌 : ソビエト連邦国歌 (1944-1991)[1]
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公用語 無し[2] 首都 モスクワ 通貨 ソビエト・ルーブル 時間帯 UTC +2~+13(DST: 無し) ccTLD .SU7 -
先代 次代 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
白ロシア・ソビエト社会主義共和国
ロシア
ベラルーシ
ウクライナ
モルドバ
グルジア
アルメニア
アゼルバイジャン
カザフスタン
ウズベキスタン
トルクメニスタン
キルギス
タジキスタン
ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)、略称ソビエト連邦(ソビエトれんぽう) は、1922年から1991年に存在した世界最初の社会主義国である。1991年に連邦は解消され構成国は独立した。
1922年に設立された世界最初の社会主義国である。間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。
ただし、ソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党がすべてのソビエトを支配しており、一党独裁制の国家となっている(ただし、ソ連はレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握およびその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。
首都はモスクワ。国旗の赤は革命を、交差した槌と鎌はそれぞれ労働者のシンボルと農民のシンボルであり労働者と農民の団結を意味し、その上の五芒星は五大陸の労働者の団結を意味している。
目次 |
[編集] 国名
正式名称は、ロシア語で Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик(Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik; サユース・サヴィェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリク)。略称 СССР(SSSR; エス・エス・エス・エール)。通称、Сове́тский Сою́з(Sovétskij Sojúz; サヴィェーツキー・サユース)。
英語表記は Union of Soviet Socialist Republics。通称USSR。英語圏では非公式には単に Russia と呼ぶことが多かった。
日本語表記は、ソビエト社会主義共和国連邦。通称、ソビエト連邦(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴェト」とも)。略称はソ連、蘇聯。戦前はソ同盟と訳されることが多かった。ソビエトとはロシア語で「評議会」の意。固有名詞(地名)を含まない唯一の国名だった(ただし、連邦を構成する諸共和国名には地名が入る)。
英語圏以外の非共産圏においても一般的にはロシア(に相当する各言語の単語)と呼ばれることが多く、日本はソ連、ソビエトという呼称が一般的に定着した稀有な事例である。
[編集] 地理
ソビエト連邦![]() |
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思想 最高指導者 場所 組織 |
ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。西はノルウェー、フィンランド、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア。南はトルコ、イラン、アフガニスタン、モンゴル、中華民国(1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮と接していた。
長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件)になったケースもある。海を隔てた隣国の1つである日本とは北方領土問題を持っており、この問題はロシアになった現在も続いており解決されていない。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。
[編集] 構成国
加盟年 | 国名 | ソ連解体後 | 備考 |
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1922年 | ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 | ウクライナ | |
白ロシア・ソビエト社会主義共和国 | ベラルーシ | ||
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国 | 1936年連邦解散 | ||
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 | ロシア | ||
1924年 | ウズベク・ソビエト社会主義共和国 | ウズベキスタン | |
トルクメン・ソビエト社会主義共和国 | トルクメニスタン | ||
1929年 | タジク・ソビエト社会主義共和国 | タジキスタン | ウズベクから分割 |
1936年 | アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 | アゼルバイジャン | ザカフカースを解散 |
アルメニア・ソビエト社会主義共和国 | アルメニア | ||
グルジア・ソビエト社会主義共和国 | グルジア | ||
カザフ・ソビエト社会主義共和国 | カザフスタン | ロシアから分割 | |
キルギス・ソビエト社会主義共和国 | キルギスタン | ||
1940年 | カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国 | ロシアの一部とフィンランドの一部を合併。1956年ロシアの自治共和国に降格。 | |
エストニア・ソビエト社会主義共和国 | エストニア | ||
モルダビア・ソビエト社会主義共和国 | モルドバ | ||
ラトビア・ソビエト社会主義共和国 | ラトビア | ||
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 | リトアニア |
なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にミハエル・ゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することになる。
また、国際連合(国連)にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ、白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟したこともあった。
[編集] 代表的な都市
- カザン
- キーロフ
- クラスノヤルスク
- フルンゼ(現ビシュケク)
- クイビシェフ(現サマーラ)
- モスクワ
- レニングラード(現サンクトペテルブルグ)
- タイシェト
- タシュケント
- チェリャビンスク
- チタ
- チュメニ
- トビリシ
- ブラゴヴェシチェンスク
- ナホトカ
- ゴーリキイ(現ニジニ・ノヴゴロド)
- ノヴォシビルスク
- ハバロフスク
- ペルミ
- ロストフ
[編集] 歴史
共産主義 |
共産主義の歴史 共産主義の種類 共産党 社会主義国 人物 |
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[編集] ロシア革命
- 詳細はロシア革命を参照
ペトログラードのデモに端を発する1917年の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾のめどはついていなかった。
同年11月ラーヴル・コルニーロフ将軍のクーデターにより生じた隙をついて、レーニンが率いるボリシェヴィキは赤衛軍を用いてペテルブルクを掌握した。レフ・トロツキーにより赤衛軍から改組された赤軍はその後の列強による干渉戦争、シベリア出兵、内戦に勝利し、すべての他派を粛清して、ロシアにおけるボリシェヴィキの一党独裁支配を決定づけた。
[編集] 国家成立
1922年に行われた全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。しかしそのわずか2年後の1924年1月にレーニンは死去する。
レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは政敵であるトロツキーの国外追放(その後トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された)を皮切りに、反対派を徹底的に排除して、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。
その後のスターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には裁判を経ない処刑や強制収容所での過酷な労働などによって、一説には1200万人以上の人が粛清されたとされる。なお、大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる(ただし、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大するはずである)。
また、1928年から行われた第一次五ヶ年計画の中核におかれたコルホーズが代表する、強引な農業集団化に伴う「富農」追放や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もあると言われている。
[編集] 第二次世界大戦
政権を握ったヨシフ・スターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国として、第一次世界大戦後にその勢力を急速に強めていたアメリカやその同盟国であるイギリスなどの「帝国主義」国との緩衝地帯にする計画を持っていた。
しかし1930年代に入ると、ドイツに「共産主義打倒」を掲げたアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権に就き、同じくポーランドやチェコスロバキアなどのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。
ドイツとは当初独ソ不可侵条約を結んでいたが、1941年6月に独ソ戦いわゆる「大祖国戦争」が開始され、その結果ソ連は連合国側として第二次世界大戦に参戦した。ドイツ軍の猛攻とスターリンによる無理な作戦の遂行がたたり、開戦後まもなく首都モスクワに数十キロに迫られた他、レニングラード攻防戦やクルスクの戦いなどにより軍民併せて数百万人の死傷者を出すなど長く筆舌に尽くし難い困難の末に、日ソ中立条約による日本軍の不参戦やイギリス軍やアメリカ軍などによる西部戦線における攻勢、アメリカなどによる軍事物資提供による後方支援のおかげもあり、最終的にドイツの首都であるベルリンを陥落させ勝利した。
その際にソビエト軍は、「ベルリン入城は英米連合国揃って行う」との密約[要出典]を無視したばかりか、ベルリン陥落後もドイツ領内侵攻を続けたためアメリカを慌てさせた。ソビエト軍はドイツの兵士や市民が降伏、投降した後でも傍若無人の乱暴な振る舞いを続けるため、ソビエト軍を恐れたドイツ軍は防衛地域を放棄して反転西進しアメリカに降伏するようにした。これによりソビエト軍はドイツの東側を難なく占領することができ、その後の東西ドイツ分割を招くこととなった。
なお、独ソ戦の開始以前に日ソ中立条約を結んでおり、大戦中を通じ交戦状態になかった日本に対しては、連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連対日宣戦布告をし千島列島や南樺太、満州国に侵攻した。
この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続け、多くの捕虜を自国内に連行し、劣悪な状況下でインフラ整備などの労働力として酷使したためその多くが死に至り、生き残った者達に対しても、日本への帰国後に共産革命を起こさせるべく共産主義教育をおこなった。これらの国際法を無視した行為とその後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。
[編集] 冷戦の開始
戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国にスターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義(西側諸国)陣営に対抗した。
1952年に死去したスターリンの死後新たな指導者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。しかしソ連が極端な警察国家、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結局はソ連は食料を海外から輸入しなければならなくなった。
なお、東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらの運動のいくつかに対しては武力介入し鎮圧した(ハンガリー動乱、プラハの春など)他、有形無形の圧力をかけ収拾させた。

また、第二次世界大戦から崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの、ベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争やベトナム戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機にさらすものだった(1962年のキューバ危機など)。その開発競争が如何に杜撰であったかは、後年のチェルノブイリ原発事故の経緯が物語っている。原子炉構造に問題があったにもかかわらず当初は運転ミスと断じられ、プリピャチ市民は放射線の恐怖をほとんど知らずにいつもの日と変わらずに日光浴や散歩をする人さえいた。
1960年代に入りフルシチョフ体制が安定するとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の純化を進めており、フルシチョフの改革路線に懐疑的であった毛沢東率いる中華人民共和国との関係は国境地帯における軍事衝突(ダマンスキー島事件)や北京のソ連大使館襲撃事件が起こるなど逆に悪化した(中ソ対立)。
[編集] 国力の衰退
その後1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策を理由に失脚させられたフルシチョフに代わり、強硬派のレオニード・ブレジネフが指導者となると国内問題を放置することが多くなり、官僚の世襲化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の供給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、これに合わせるように東側諸国全体の経済が次第に沈滞していった。
1979年にブレジネフは、隣国のアフガニスタンに成立した共産主義政権を支える為にアフガニスタン侵攻を行ったものの、結果的に西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招くことになった。この侵攻は1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、莫大な戦費を10年間の長きに渡り浪費することや多くの戦死者を出すことによって、ただでさえ沈滞していた経済をますます圧迫する結果になった。
[編集] ペレストロイカ
1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフや、アンドロポフの死後に後継者となったものの、アンドロポフと同じく長い闘病生活の末に病死したため、具体的な政策を殆ど実行に移せなかったコンスタンティン・チェルネンコ時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に登場したミハイル・ゴルバチョフの指揮下でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められた。
これにより、長きに渡った一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進み、1990年にはこれまでの一党独裁制にかわって複数政党制と大統領制が導入された。しかし、情報公開や報道規制の緩和は長年抑えられていた民族感情を刺激し、ソ連邦を構成していた各共和国では急速に分離独立の動きが強まっていく。
[編集] 冷戦終結
また、これらのソビエト連邦における改革を受けて、1989年から1990年にかけて東ドイツやハンガリー、ポーランドやチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。その殆どは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスクが改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して殆ど介入しなかった。
ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により冷戦状態は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月に地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した。
[編集] 崩壊
そして1991年3月17日には連邦維持の賛否を問う国民投票が行われ、投票者の約76%が連邦維持に賛成票を投じることとなった(バルト三国の様に独立志向が強い共和国では投票はボイコットされた)。その後新連邦条約に基づき連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編が行われる予定だった。

しかし、それらの改革路線がソ連崩壊に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフやウラジーミル・クリュチコフらの保守派によって8月にクーデター(ソ連8月クーデター)が発生したものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わる。クーデターの失敗によってクーデターに賛同した保守派が失脚したことにより国家組織が崩壊、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を引責辞任し、議会はバルト三国独立を承認した。
さらに同年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ共和国が独立して独立国家共同体(CIS)を創設、残る諸国もそれにならいCISに加入し、この年の12月25日にソビエト連邦は完全に解体した。
[編集] 政治
[編集] 一党独裁制
ロシア革命直後と末期を除くと、ソビエト連邦共産党による一党独裁制。民主集中制・計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、党官僚による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上なかった。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされていない体制となってしまっていた。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。
特に、スターリン時代は粛清によって、多くの人々が殺害され、スターリン主義のもと、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕又は亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者や亡命日本人も含まれているが、日本政府は謝罪や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。
なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首はソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。
[編集] 歴代指導者
- 詳細はソビエト連邦の指導者の一覧を参照
- ウラジーミル・レーニン (1917-1924)
- ヨシフ・スターリン (1924-1953)
- ゲオルギー・マレンコフ (1953)
- ニキータ・フルシチョフ (1953-1964)
- レオニード・ブレジネフ (1964-1982)
- ユーリ・アンドロポフ (1982-1984)
- コンスタンティン・チェルネンコ (1984-1985)
- ミハイル・ゴルバチョフ (1985-1991)
[編集] 外交関係
- 詳細はソビエト連邦の外交関係を参照
外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。
成立当初は孤立したが、独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国とし、東アジア(中華人民共和国やベトナム、北朝鮮など)、中南米(キューバやチリ、ニカラグアなど)、アフリカ(アンゴラやリビア、コンゴなど)などでも「民族解放」や「反帝国主義」を唱える社会主義独裁政権の成立を後援し、アメリカや西ドイツ、イギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。
[編集] 対社会主義陣営
[編集] 中華人民共和国との関係

ソビエト連邦の支援により、蒋介石率いる中国国民党との国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年に成立した中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や大使館乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。
1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこの様な対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である文化大革命が終結する1970年代後半まで続くことになる。
その様な中で、ソ連を牽制しようとしたアメリカが1970年代に入り急速に中華人民共和国に近づき、国交を結び、その後アメリカの同盟国である日本も中華人民共和国と国交を結んだが、独裁体制を敷きソ連と対峙していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉によりソ連と中華人民共和国の関係も改善された。
[編集] 対資本主義陣営
[編集] 日本との関係
ロシア時代に日露戦争で戦い完敗した日本とは、ソビエト連邦成立後も満州国との国境などで度々軍事的衝突を起こしていた。その後第二次世界大戦中の1941年4月に日ソ中立条約が締結されたものの、ヤルタ会議において連合国間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破り日本に対して参戦し、その上日本が降伏した後も侵略を続け北方領土などの多くの日本の固有の領土を違法に占拠した。その上多くの日本人捕虜を戦後長い間拘留し強制労働に処し、その多くを死に追いやった。この件に関してはロシア政府は近年ようやくシベリア強制労働の被害者・遺族に対して謝罪と賠償を始めつつある。
その後、1956年に日ソ共同宣言を出して国交を回復したものの、日本がアメリカの同盟国であることや北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移。冷戦終結、ソ連崩壊を経た現在でも日本と事実上の後継国家となったロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。
なお、冷戦の最中には日本社会党などの左翼政党や、ベトナム戦争に反対するべ平連などの左翼的な反戦・市民運動組織に対し、資金援助や情報の提供、武器の供与など有形無形の指示・援助を行い保守勢力に揺さぶりをかけたことが判明している。また、KGBなどが中心となり大使館員などに偽装した多くのスパイを政府内部や自衛隊などに送り込み、ラストボロフ事件などの数々の事件を起こした。
このような様々な活動を行った結果、与党である自由民主党の国会議員をはじめとする保守勢力における共産主義者や左翼への警戒心を増大させ、「反共産主義」を掲げる統一協会とその関連団体である勝共連合と接近し、岸信介など多くの有力な自由民主党議員が統一協会と協力関係を結ぶ一因となったと言う意見も多い。その一方で、自由民主党の国会議員にも様々な工作を仕掛けただけでなく、これらの中には自主的にソ連とのパイプを利用して利権を貪る者がいた。その様な中で、ソ連の樺太侵攻を描いた映画『氷雪の門』が製作された際には、日ソ関係の悪化を恐れた自由民主党と外務省が映画の製作者側に圧力をかけ、公開中止に追い込むという事態を招いている。
[編集] アメリカとの関係
社会主義国陣営の盟主として、資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国とは「冷戦」という形で対立し、1950年代における朝鮮戦争や1960年代におけるベトナム戦争など、代理戦争という間接的な形で軍事的対立をしていたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。
しかしベルリン封鎖やキューバ危機などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行った他、U-2撃墜事件における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。
また、この様な対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な国交が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。しかし、大韓航空機撃墜事件やソ連のアフガニスタン侵攻などの事件があった際には、「制裁措置」として民間機の乗り入れが時限的に制限されたり、スパイ事件などが明るみになり、一方の外交官がペルソナ・ノン・グラータとして国外追放になると、それに対する「報復措置」として、もう一方の国の外交官を同じ容疑で国外追放するなど、茶番じみた外交的駆け引きが行われていた。
[編集] 外国渡航禁止
外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。さらに、旅行者は外国から帰国すると必ずといっていい程諜報部から尋問を受けるので本人にはその意思が無くても外国で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。
また、西側諸国人との交際や結婚は事実上不可能な状態であった上、衛星国人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたと言われている。なお、外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団などには、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ず共産党の政治将校が同行していた。
[編集] 軍事
- 詳細はソビエト連邦軍を参照
[編集] 強力な軍事力
アメリカを筆頭とする西側諸国への対抗上、核兵器や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、大陸間弾道ミサイルや大陸間弾道ミサイルを搭載可能な原子力潜水艦などを配備し、強力な軍事力を保持していた。
しかし、こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらし、国民経済を疲弊させた。また、1979年から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果もなく失敗。多大な戦費や人命を失っただけでなく、ソビエト連邦の威信をも低下させた。また、大韓航空機撃墜事件のような民間機撃墜事件を引き起こすなど、共産主義的な官僚主義と非人道的さが西側諸国の反発を買った。
[編集] 軍事支援

また、ワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地をおき、ハンガリー動乱、プラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構加盟国のみならず、北朝鮮や中華人民共和国、キューバや北ベトナムなど、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して各種の武器を輸出した。
それだけでなく、軍事技術をこれらの国に輸出した他、将校などを派遣して軍事訓練を行ないこれらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学や各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。また、朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には友好国側を積極的に支援しただけでなく、朝鮮戦争においては当時の指導者のヨシフ・スターリンが、北朝鮮の金日成に対して事実上開戦を指示した。
- ロシア・ソ連の軍服も参照
[編集] 科学技術

航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーション「ミール」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発の他、原子力開発の分野に至るまで、ソ連は人類の巨大科学に偉大な足跡を残している。
また、航空機でもミグ・イリューシン・ツポレフなどによって独創的な機構を持つ戦闘機・爆撃機・輸送機や旅客機が製造され、現在でも各国で使用されている。第二次世界大戦中に「スターリンのオルガン」と呼ばれドイツ軍に恐れられた「カチューシャ」ロケット砲車も開発した。さらにステルスにも重要な理論的影響を与えている他、テトリスなどのコンピュータゲームも開発した。
しかし、一方ではそれが軍事費とともに国家の経済を疲弊させたほか、航空宇宙技術や重工業を優先するあまりに消費財の製造が後回しにされ、民衆を苦しめる結果になった。また、チェルノブイリ原発事故に見られるように人命や健康、自然環境の保護をあまり考慮しない原子力開発や工場の建設などが行われた。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な放射能汚染が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。
また、末期になると進んでいたはずの原子力技術や航空宇宙技術でもアメリカのそれに対して10年単位で見劣りするようになり、軍用の製品や技術を東芝や日立などの日本のメーカーから買っていた。
なお、これらの先進技術、特に宇宙開発や原子力開発は外国人立ち入り禁止の閉鎖都市で行われ、これらの都市は地図にさえ記載されなかった。
[編集] 経済
- 詳細はソビエト連邦の経済を参照
[編集] 計画経済
経済面では計画経済体制がしかれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。1930年代に世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに高い経済成長を達成したため、バーナード・ショーや岡田嘉子などの欧米や日本の左翼知識人達から「失業も階級もない理想の国家」と評されたが、実はその経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていたことがその後明らかになった。また、1960年代以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。
また、流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくであった。その為に闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、その様な中で共産貴族がはびこるという結果になった。
[編集] 消費財の流通
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軍事に高い技術と莫大な資金が投じられる中、国民生活に必要な電化製品や消費財の開発と生産、物流の整備はおろそかにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。殆どの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より10年以上遅れていたといわれている上、その多くがフィアットやパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたものであった。
なお、西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられたグムなどの外貨専用デパートで入手することが可能であった。しかし、実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロのタバコやリーバイスのジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。
[編集] 貿易
上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物や魚介類などの第一次産品や、原油や天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。また、通貨のルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。
それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。また、その多くが事実上の援助品として、バーター貿易など無償に近い形で供給された。
[編集] 交通
[編集] 航空
[編集] アエロフロート
広大な国土は主に航空機によって結ばれていた。なお、国内の航空路線網は唯一にして最大の航空会社である国営のアエロフロート・ソビエト航空によって運行されており、長距離国際線や、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された滑走路が整備されていない地方空港への運行が可能なように、大型ジェット機からターボプロップ機、小型複葉機まで様々な機材を運行していた。
[編集] 国際線
同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があるにもかかわらず、国力と友好関係を誇示することを目的に、西側の主要国や東欧の衛星国、キューバやアンゴラ、北朝鮮などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。しかし、その目的から完全に採算度外視で運行していた上、そのサービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。
また、海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、日本やアメリカ、ドイツなどの西側諸国からも、日本航空やパンアメリカン航空、ルフトハンザ・ドイツ航空などの航空会社が乗り入れていた。なお、日本との間は日本航空とアエロフロートが東京(羽田空港、成田空港)、新潟(新潟空港)とモスクワ、ハバロフスク、イルクーツクとの間に定期便を運行していた。
[編集] 鉄道
シベリア鉄道を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていた他、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。なお、モスクワやレニングラードなどのいくつかの大都市には地下鉄網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、駅構内は宮殿のような豪華な装飾が施されていた。
[編集] 自動車
個人による自動車の所有が限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような高速道路による移動は一般的なものではなかった。なお、大都市の市街地にはバス路線網が張り巡らせられていた。
[編集] 言論・報道
[編集] 報道管制
上記のように外国の放送の傍受が禁止されていた上、テレビやラジオ、新聞などのマスコミによる報道は完全に共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は一切流れることはなかった。このような規制は外国の事件や、チェルノブイリ事故や大韓航空機撃墜事件のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものは殆ど報道されることがなかったか、もし報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。
また、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、クラシック音楽もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、クレムリンなどの要所に掲揚されている国旗が半旗になるるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更さ、要所に掲揚されている国旗が半旗になる度に、どの要人が死去したかを推測しあっていたと言われている。
西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程は全てお膳立てされたものに沿わなければならなかった。また、モスクワオリンピックなどの国際的イベントや、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、この様なお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。
また、西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局から宛てがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。
[編集] 「クレムノロジー」
党の要人が失脚した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、メーデーなどをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの赤の広場の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「クレムノロジー」と呼んでいた。
[編集] プロパガンダ
ソビエト連邦のプロパガンダ、特にレーニン政権期のものは世界の先駆けをゆき、モンタージュ理論やロシア・アヴァンギャルドなどはその代表だった。その精巧さはナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相までもを絶賛させた。他にもトロツキーはラジオの導入も提案していた。しかし、スターリン期に入ってからはほとんどの専門家が粛清され、衰退していった。
[編集] 文化
[編集] 芸術

言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされるものや、国外追放されるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。また、スターリン政権下の1932年に行われたソ連共産党中央委員会にて「社会主義リアリズム」の方針が提唱されて以降は、1930年代前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。
一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は政府の後援の元高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらショスタコーヴィチらが作品を残し、ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが名演奏を残している。
[編集] 外来文化
西側諸国で人気のあったロックンロールやヘヴィメタル、ジャズなどの音楽や、ハリウッド映画などの大衆文化は、「退廃を招く幼稚なもの」として原則的に禁止され、わずかに北ヨーロッパ諸国や西ドイツなどのポピュラー音楽や、衛星国や日本、イタリアなどの芸術的要素の高い映画のみが上映を許されていた。また、外国のラジオ放送を傍受することも禁止されていた。
[編集] スポーツ
[編集] ステート・アマチュア
スポーツでは国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆるステート・アマチュアと呼ばれる国家の選手育成プログラムによって育成させられた選手が、オリンピックで数多くの栄冠を手にしている。特にアイスホッケーやバレーボール、バスケットボール、ホッケーなどの強豪国として知られオリンピックのメダル獲得数で常にアメリカや東ドイツなどと首位を競う存在であった。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法ドーピングなどによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。
なお、共産主義というシステム上、全てのスポーツが国家の管理下におけるアマチュアスポーツであると言う位置づけであり、よって資本主義諸国のようなプロスポーツ及びプロ選手は存在しなかった。
[編集] モスクワオリンピック
オリンピックは夏季、冬季両大会を通じて1980年に行われたモスクワオリンピック1回のみであった。
冷戦下と言うこともあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議を理由に、日本や西ドイツ、アメリカなどが大量ボイコットを行い事実上失敗に終わった。また、これに対する事実上の報復措置として、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国の多くが次回の1984年に行われたロサンゼルスオリンピックをボイコットした。
[編集] 関連項目
- クレムリン
- 一党独裁制
- 日本共産党
- 全体主義
- 大粛清
- 共産貴族
- 計画経済
- コルホーズ
- ソフホーズ
- ピオネール
- 極東共和国
- チェカ
- KGB
- 第三インターナショナル(コミンテルン)
- コミンフォルム(コミンテルンの後継組織)
- モスクワオリンピック
- モスクワ放送
- ロシア・アヴァンギャルド
- ニュー・ロシア・アヴァンギャルド
- 社会主義リアリズム
- 宇宙開発
- 宇宙ステーションミール
- スプートニク計画
- ボストーク
- ソユーズ
- ソ連の有人月旅行計画
- グラスノスチ
- ソビエト連邦科学アカデミー