ビロード革命
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ビロード革命(ビロードかくめい、Sametová revoluce)とは1989年11月に起こったチェコスロバキア(当時)における、共産党体制崩壊をもたらした民主化革命のこと。この革命では後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかった。そのためこの革命を軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地に喩えて「ビロード革命」と言う。
[編集] 前史
1968年に起こった改革運動、いわゆる「プラハの春」がワルシャワ条約機構の軍事介入で潰された経験をもつチェコスロバキアでは1969年以降、グスターフ・フサークの下で「正常化」路線が進められてきた。しかし国内には共産党政権に対する不満、民主化を求める集団が、無視できない政治集団として存在していた。プラハの春以降地下に潜った反体制的知識人や、1977年に憲章77を発表した知識人のグループである。1988年以前からフサークの運営する政府に対する不満は高まり、最早チェコスロバキア共産党単独で政権を維持することが不可能である事は、日に日に明らかになっていった。
その中でフサークから党第一書記の地位を引き継いだ(フサークは引き続き大統領職には留まった)ミロシュ・ヤケシュは、ある程度経済改革と民主化を認める方向を打ち出した。しかし同時に国内の体制維持に執心し、反体制派に容赦しなかったので、国民の不満は解消されなかった。
しかしながら、チェコスロバキア共産党も国民も歴史の変換点が近いことは感じ取っていた。汎ヨーロッパ・ピクニックを受けて、チェコスロバキアにも西ドイツへの越境を求める東ドイツ市民が大量に流れ込んで来たためである。プラハの西ドイツ大使館はこうした東ドイツ市民で溢れるようになってきた。チェコスロバキア側は東ドイツとの関係悪化に怯えながらも西ドイツの求めに応じて何度か西ドイツへの東ドイツ市民の空輸に協力した。
[編集] 経緯
チェコスロバキアでの民主化を求めるデモは、ベルリンの壁崩壊以前から頻発しており既にプラハの春の時と同じくらいの規模のデモも起こっていた。さらに壁が崩壊するとこの動きは加速され、1989年11月17日からは10万人単位でのデモが毎日のように行われた。1週間後の11月24日には党第一書記のヤケシュが退任。その後、共産党による一党独裁を廃止する事によって収拾が図られた。
複数政党制による選挙では、「憲章77」起草の中心人物である劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルらが率いる「市民フォーラム」が勝利を収め(スロヴァキアでは同系統の「暴力に反対する公衆」が第一党となった)、プラハの春の結果失脚した元党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクが連邦会議議長、ハヴェルが大統領に就任し12月には非共産党系による新政権が発足した。
チェコスロバキアでは、ここに至るまで流血の事態は避けられ、比較的穏便に政権交代がなされた。この結果、チェコスロバキアにおける民主化要求の運動は「ビロード革命」と言うありがたい名前を頂戴することが出来た。
革命の副産物としては、1948年以来チェコスロバキアを離れていた名指揮者のラファエル・クーベリックが、ハヴェルの強い要請を受けて帰国。1990年のプラハの春国際音楽祭ではスメタナの「わが祖国」全曲をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とともに演奏した。
[編集] ビロード革命の影響
革命のエネルギーは、89年以降も燻り続け、チェコ、スロバキア双方のナショナリズムを刺激した。とくに国名をめぐる対立(ハイフン戦争)や市場経済への移行政策をめぐって、双方の主張は対立し、1992年の総選挙後、チェコではヴァーツラフ・クラウス率いる市民民主党が、スロヴァキアではヴラジミール・メチアルの民主スロヴァキア運動が第一党となった結果、連邦の解体は時間の問題となった。最終的に、クラウスとメチアルのトップ会談を経て、1993年1月1日をもってチェコスロバキアは連邦制を解体した。この過程で内戦になったユーゴスラヴィアと対照的に、武力衝突に至らず、平和的に連邦解消が行われたことから、「ビロード革命」をもじって「ビロード離婚(velvet divorce)」と呼ばれることがある。