プラハの春
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プラハの春(Pražské jaro)
- 1968年にチェコスロヴァキアで起こった改革運動。ワルシャワ条約機構軍の侵入のみを取り上げた場合はチェコ事件という。本項で詳述。
- プラハで毎年行われる音楽祭。プラハの春 (音楽祭)を参照のこと。
- 春江一也の小説。プラハの春 (文学)を参照。
プラハの春(Pražské jaro)は、1968年に起こったチェコスロヴァキアの改革運動。
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背景
1956年のスターリン批判の衝撃が、ポーランドやハンガリーのように共産党体制の危機を引き起こすほどではなかったチェコスロヴァキアにおいても、1960年代に入ると、アントニーン・ノヴォトニー(党第一書記兼大統領)の統治体制は揺らぎ始めた。とくに、1950年代に猛威を振るった粛清裁判犠牲者の名誉回復問題、経済成長の鈍化に象徴される計画経済の行き詰まり、スロヴァキアの自治要求などをめぐって、ノヴォトニーに対する批判が高まっていった。
1967年に入ると、第4回チェコスロヴァキア作家同盟大会において、パヴェル・コホウト、ミラン・クンデラ、イヴァン・クリーマといった作家たちが党批判を行った。また10月末には、プラハで学生が学生寮の設備をめぐる抗議デモを行い、党指導部がこれを警察隊によって鎮圧する事態に発展した。それに加えて、党内においても、ノヴォトニーの国家・党運営に対して、スロヴァキア共産党側から強い不満が出された。こうした状況下で、12月にブレジネフが非公式にプラハを訪れた。ブレジネフからの支援を梃子に、事態の収拾を図ろうと目論んだノヴォトニーであったが、ブレジネフはチェコスロヴァキア共産党内の問題であるとして、積極的なノヴォトニー支持を打ち出さなかった(このときブレジネフは「Это Ваше Дело(あなたたちの問題だ)」と述べたとされる)。結局、党内対立が解消されないまま開かれた12月の党中央委員会総会は、さらなるノヴォトニー批判一色となり、ノヴォトニーが兼任していた党第一書記と大統領職を分離する流れが固まっていった。
改革運動の展開
人間の顔をした社会主義
1968年1月5日のチェコスロヴァキア共産党中央委員会総会において、スロヴァキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクがノヴォトニーに代わって、チェコスロヴァキア共産党第一書記に就任した。
ドゥプチェク体制の始動
1月総会の結果、事実上、検閲が廃止されたこともあり、ノヴォトニー体制の中核を担っていた党幹部や閣僚に対する批判が高まった。2月には、国防省の幹部で、ノヴォトニーと懇意にあったヤン・シェイナ将軍がアメリカに亡命する事件が起きた。彼は公金の不正流用疑惑で捜査対象となっていたが、同時に12月末から1月初めにかけて、ミロスラフ・マムラ将軍などと共謀し、ノヴォトニーの権力維持を目的とするクーデタを企てていたことが発覚した。この事件は、マスコミにとって格好の話題となり、その論調の矛先は、大統領職に留まっていたノヴォトニーに向かった。また3月にはいると、ノヴォトニー体制を支えてきた党や政府幹部も相次いでその職を去っていった。たとえば、内相ヤン・クドルナや検事総長ヤン・バルトシュカの辞任は、ソ連(とくにKGB)との関係が深い治安機構を管轄する部署にも改革の波が押し寄せたことを知らしめた。そしてついに3月21日、ノヴォトニーは大統領職を辞任し、第二次大戦中の英雄であったルドヴィーク・スヴォボダが大統領に選出された。
「行動綱領」の採択
4月の党中央委員会総会で『行動綱領』が採択された。この文書は「新しい社会主義モデル」を提起し、
- 党への権限の一元的集中の是正
- 粛清犠牲者の名誉回復
- 連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」の解決
- 企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革
- 言論や芸術活動の自由化
- 外交政策でもソ連との同盟関係を強調しつつも、科学技術の導入を通した西側との経済関係の強化
が盛り込まれた。
またオルドジフ・チェルニークを首班とする新内閣が発足した。副首相として、計画経済の改革を主張する経済学者のオタ・シクや、1950年代に「ブルジョワ民族主義」の罪で終身刑を宣告され、公的生活から追放されていたグスターフ・フサークが入閣した。国民議会議長には、国民の間で人気のあったヨゼフ・スムルコフスキーが、国民戦線議長にフランチシェク・クリーゲルが就任し、党および政府の主要ポストを改革派が占めた。
『行動綱領』の採択を受けて、改革運動は社会全体に浸透していった。労働組合、青年組織、社会民主党やKAN, K-231などの非共産系政治組織の動きが活発になった。それと同時に、改革の内容をめぐる認識の相違が顕在化し始めつつあった。改革運動の急進化に懸念を抱く勢力が形成され、ソ連などと接触を図るようになったり、スロヴァキアでは民主化よりも連邦化を重視する動きがあり、改革に対する認識が必ずしも一枚岩ではなかった。
改革運動の浸透と5月総会
6月に予定されていたワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキア領内における合同軍事演習に向けたソ連軍が到着するなか、5月末に開催された党中央委員会総会は、同盟諸国の懸念に配慮する形で、右派修正主義の危険性を強調し、国民戦線の枠外における政治組織を「反共活動」とみなした。これによって党の指導的役割を堅持する態度を明らかにした。他方で第14回党大会を前倒しして9月に開催することを決定したことは、改革路線の継続を印象付けた。なぜならば、臨時党大会で改革に危惧を抱く多くの中央委員や党員が再任されないことが予想されたためであり、党大会が成功すれば、改革勢力の基盤は磐石となり、不可逆的なものとなるからであった。
二千語宣言
6月27日、ルドヴィーク・ヴァツリークが起草した『二千語宣言』が主要な新聞紙上に掲載された。その内容は『行動綱領』のそれと変わらなかったが、ソ連などは「反革命」の兆候であると受け取った。
ソ連ブロックの動向
ドゥプチェクの党第一書記就任から軍事介入までの8カ月間は、ソ連をはじめとする同盟諸国(ソ連ブロック)が、チェコスロヴァキア指導部を交えた多国間会談における批判、ワルシャワ条約機構軍の軍事演習など政治的・心理的・軍事的圧力を行使し、チェコスロヴァキアの共産党体制の解体、および改革運動の自国への波及を食い止めようとした期間であった。
ソ連ブロックの憂慮
1月のチェコスロヴァキアにおける権力者の交代に対し、真っ先に憂慮を示したのが、ポーランドと東ドイツであった。1月中旬、両国を訪問したブレジネフに対し、ヴラジスラウ・ゴムウカとヴァルター・ウルブリヒトはともに、「反社会主義」的影響がチェコスロヴァキアを越えて、ソ連ブロック全体に波及すること、そしてそれが国内の共産党体制の基盤を侵食する可能性があると懸念を伝えた。とくにポーランドでは、3月に学生デモが発生し、「ポーランドにもドゥプチェクを!」と書かれたプラカードが掲げられる状況は、ゴムウカの懸念をいっそう強めた。また2月22日に開催された1948年革命記念式典は、ブレジネフら各国首脳が出席し、チェコスロヴァキアにおける改革の気運を肌で感じる機会となり、共産党に対する率直な批判記事を掲載するマスメディアの動向が注意を引きつけ、改革運動に対する懸念を高めた。
ドレスデン会談(3月23日)
ノヴォトニーの大統領辞任が決定的となったことは、ソ連指導部に強い危機感を抱かせ、ドレスデンで、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアを伴って、チェコスロヴァキアとの多国間会談の場を持つことになった。ルーマニアを除いたワルシャワ条約機構5カ国がチェコスロヴァキアの改革を協議する枠組みは、その後8月の軍事介入に至るまで幾度か開催される会談の嚆矢となった。会談の冒頭で、議題がチェコスロヴァキアの改革運動の是非をめぐってであると言われたものの、事前に会談の議題がソ連ブロック諸国の経済問題であると知らされていたドゥプチェクを筆頭とするチェコスロヴァキア代表団は、各国から浴びせられた改革に対する厳しい批判に十分な応答ができなかった。会談全体を通して、ハンガリーを除くソ連、東ドイツ、ポーランド、ブルガリアの各代表団は改革運動を反革命の兆候であると指摘し、共産党の指導的役割が侵食されていることに懸念を表明した。チェコスロヴァキアの代表団は改革運動が共産党体制の強化につながること、国民の多くから支持を得ている点を説明したが、ソ連をはじめとする同盟諸国の理解を得るまでにはいたらなかった。
モスクワ会談(5月4日、5月8日)
『行動綱領』の採択を契機にして改革運動が活発化するとともに、共産党体制やソ連との同盟関係に対する批判が出るようになったことは、ブレジネフ指導部にとって憂慮すべき事態と映った。こうしたなか、5月4日モスクワを訪れたチェコスロヴァキア代表団(ドゥプチェク、チェルニーク、スムルコフスキー、ヴァジル・ビリャーク)がソ連指導部と会見した。チェコスロヴァキアとの二国間会談を受けて、8日にゴムウカ、ウルブリヒト、ヤーノシュ・カーダール、トドール・ジヴコフがモスクワに集まり、ブレジネフから先のソ連=チェコスロヴァキア会談の内容について報告を受けた。その結果、ワルシャワ条約機構軍の軍事演習を前倒しして実施すること、改革に懸念を抱いているチェコスロヴァキア共産党内の「健全勢力」を支援することで合意した。5月中旬、アレクセイ・コスイギン首相とアンドレイ・グレチコ国防相が相次いでチェコスロヴァキアを訪問した。
軍事演習「シュマヴァ」
6月18日から30日にかけて、ワルシャワ条約機構軍の合同軍事演習「シュマヴァ」が実施された。この演習には、(1)9月の臨時党大会に向けた代議員選出において改革派の伸張を牽制すること、(2)軍事介入の実施を想定したシミュレーション、の意味合いがあった。また演習終了後もチェコスロヴァキア領内から軍隊が撤退する気配がなかったことはチェコスロヴァキア国民の間に軍事介入の不安が広まった。
ワルシャワ会談(7月14日-7月15日)
『二千語宣言』を反革命の証拠とみたソ連指導部は、チェコスロヴァキア指導部に対し、多国間会談を提案する書簡を送った(同様の書簡が東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアからも送付された)。しかし、チェコスロヴァキア指導部は、書簡の内容を検討した結果、まず二国間会談を行い、意見調整をした上で、ルーマニアとユーゴスラヴィアを加えた多国間会談を開くよう逆提案した。結局、この提案はソ連指導部によって拒否され、14日にワルシャワで多国間会談を開催することが伝えられた。会談の前日、13日、ブレジネフの意向を受けて、カーダールはドゥプチェクやチェルニークと会談し、ワルシャワに赴くよう促したが、チェコスロヴァキア側はこれまでの主張を繰り返し、カーダールの説得は失敗に終わった。こうして、ワルシャワに集まったソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアの指導部は、チェコスロヴァキア代表団が欠席する状態で、チェコスロヴァキアの改革運動について協議した。ブルガリア代表団から軍事介入を求める声が上がるなど、総じて改革運動に対する危機感が強いものであったが、ソ連指導部はチェコスロヴァキアに対し、反革命勢力との戦いに対する全面支援を記した「共同書簡」の送付を決定した。
シェレスト=ビリャーク極秘会談 (7月20日)
改革運動に批判的な態度を示していたスロヴァキア共産党第一書記のビリャークが、ハンガリーの保養地バラトン湖畔で、ペトロ・シェレストソ連共産党政治局員兼ウクライナ共産党第一書記と極秘に会談した。この席でシェレストは軍事介入の実施に当たってはチェコスロヴァキアの要請が不可欠であると指摘した。
チェルナ会談(7月29日-8月1日)
ソ連とチェコスロヴァキアの国境にあるチェルナ・ナド・チソウで2国間会談が開催された。当初は、1日の予定であったが、結局4日間に及んだ。会談後の公式声明は、3日にブラティスラヴァでワルシャワ条約機構4カ国を含めた多国間会談を開催することだけに言及していたが、ソ連指導部は、チェコスロヴァキア側からいくつの譲歩を引き出したことで、一定の「合意」を得たと理解し、軍事介入の決定には至らなかった。その「合意」とは、
- 共産党の指導的役割の擁護
- 検閲の復活によるマスメディアのコントロール
- 非共産党系政治組織の解散
- ヨセフ・パヴェル内相、イジー・ペリカーン、クリーゲル、チェストミール・ツィーサシなど改革派の更迭
であった。しかし、この「合意」をめぐるソ連とチェコスロヴァキアの認識には決定的な違いが存在したことが後の軍事介入に踏み切った要因のひとつとなった。
ブラティスラヴァ会談(8月3日)
ブラティスラヴァで東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの代表団を加えて、共同声明が発表された。この会談中、アロイス・インドラ、ドラホミール・コルデル、ビリャーク、アントニーン・カペクらチェコスロヴァキア共産党内の「健全勢力」から軍事支援を要請する書簡がブレジネフの元へ届けられた。
軍事介入の決定
ブラティスラヴァ会談後、チェコスロヴァキアをめぐる緊張状態は、ソ連のマスメディアが改革を批判する記事の掲載を見合わせるなど、低下したように思われた。しかし、チェルナ会談の結果とされる「合意」内容の履行をめぐるソ連とチェコスロヴァキア間の見解の相違は徐々に明らかになり、ブレジネフは、9日と13日の2度にわたりドゥプチェクと電話会談を持ち、「合意」の実施を迫ったが、ドゥプチェクは9月の臨時党大会の準備を理由に、ブレジネフの要求に応える態度を見せなかった。ここに至って、ドゥプチェク体制の下では、これ以上の改革の進展を阻止することは困難であるという認識が固まり、軍事介入によって、事態を打開する方策が採用された。8月15日から8月17日の3日間にわたって開かれたソ連共産党政治局会議でチェコスロヴァキアへの軍事介入が最終決定され、翌18日、ウルブリヒト、ゴムウカ、カーダール、ジフコフをモスクワに招き、介入決定を伝え、承認を得た。
軍事介入とその帰結(チェコ事件)
8月20日深夜、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が侵攻し、チェコスロヴァキア全土を占領下に置いた。
革命労農政府樹立の失敗
軍事介入の実施はチェコスロヴァキア共産党幹部会における党内保守派による労農革命政府の樹立と連動する計画であった。しかし、侵攻当日の幹部会は、9月9日の党大会の準備作業に忙殺され、保守派が用意した情勢報告に基づくドゥプチェク指導部の交代と、新たに発足した指導部による「介入の要請」というシナリオは狂いはじめた。結局、介入の連絡が党幹部会に届いたとき、保守派は、多数を占めることができず、反対に軍事介入を非難する声明が採択された。こうしてソ連などが介入はチェコスロヴァキアからの要請によると宣伝したにもかかわらず、当のチェコスロヴァキア側が介入を非難するという逆説的な状況が生まれた。それでも、革命労農政府を樹立するという計画は、翌日も、ホテル・プラハおよびソ連大使館において、モスクワから派遣されたマズロフ政治局員やチェルヴォネンコ大使を交えて、継続的に試みられた。最終的に、スヴォボダ大統領の決断を仰ぐことになったが、彼は、ドゥプチェクらの解放とブレジネフ指導部との直接交渉を優先させ、新政府の樹立を拒否した。
第14回臨時党大会
22日、プラハのヴィソチャニ地区にある工場では、急遽、第14回臨時党大会が開催された。この案は介入直後に共産党プラハ市支部の指導者ボフミール・シモンがドゥプチェクに提案し、ラジオや党機関紙などを通じて連絡が伝えられた。こうして、軍事占領という異常事態にあって、1,112名(最終的には1,219名)が集まった(ただし交通事情などの理由でスロヴァキア代表は15名程度に止まり、この点が後に党大会の無効を求める主張の論拠となった)。大会は、軍事介入を非難し、拘束されたドゥプチェクら党指導部への支持を表明する決議を採択した。
チェコスロヴァキア国民の受動的抵抗
当日、国営放送は国歌「モルダウ」を流し続けるのみで対外的には何のアナウンスもせず、また国際通話やニュースの外信テレックスも封鎖され、唯一規制出来なかったアマチュア無線からの発信と、交信に応じた局や傍受したBCLによって事件は全世界の知るところとなった。
国際社会の反応
ソ連のチェコスロヴァキア侵攻に関して、21日、アメリカ、イギリス、フランス、カナダの要求で国連安保理が召集された。ブラジル、カナダ、デンマーク、フランス、パラグアイ、イギリス、アメリカが提出した「侵攻が国連憲章に反する内政干渉であり、即時撤退」を求める決議は、賛成10、棄権3、反対2の採決結果を見たが、ソ連が拒否権を行使したため、葬られた。またカナダは、国連事務総長がプラハに特別使節を派遣する決議を提起し、24日には、介入当日にユーゴスラヴィア訪問中だったハーイェク外相が国連で軍事介入を非難した。しかし、「モスクワ議定書」が締結されたことによって、チェコスロヴァキア側が議題を取り下げたことで、国連での議論は効果的な措置を講じることなく終わった。
他方、西側陣営、とくにアメリカは、ドゥプチェク指導部による改革運動に共感を寄せつつも、具体的な行動をとることはなかった。その背景には、核拡散防止条約の調印や戦略兵器制限交渉の開始など、ソ連との関係改善に期待をかけ、チェコスロヴァキアに関わることで、こうした流れが中断される懸念があった。またチェコスロヴァキアとの関係に関しては、当時アメリカが泥沼にはまっていたヴェトナム戦争において、北ヴェトナムへの兵器供与国であったこともジョンソン政権が積極的支持を躊躇させる要因のひとつとして指摘できる。そのため、チェコスロヴァキアの状況よりも、予定されていたモスクワ訪問の行方に対する軍事介入の影響を気にかけたジョンソンの反応は、冷戦下のヨーロッパ分断状況、米ソの勢力圏に対する相互不干渉という暗黙のルールを示唆するものであった。
クレムリンでの交渉
当初の目論見が崩れ、チェコスロヴァキア側の受動的抵抗に直面したブレジネフらソ連指導部は、事態収拾策として、スヴォボダの要求を受け入れ、23日から、クレムリンで交渉が始まった。しかし「反革命勢力」と名指しし、拘禁していたドゥプチェクらと交渉するというブレジネフの方針に関しては異論が投げかけられた。モスクワに集結していた介入当事国首脳は、24日にソ連指導部の方針を知らされたが、この場でウルブリヒト、ゴムウカ、ジフコフは、あくまでも革命労農政府の樹立を求め、必要ならば一定期間の軍事占領を実施する強硬意見を述べた。また25日のソ連共産党政治局会議でも、同様にブレジネフやコスイギンが描く事態収拾策に対して異議が出された。
「モスクワ議定書」
4日間の交渉の結果、26日、両指導部の間で「モスクワ議定書」が締結された。議定書は、15項目から成り、マスメディアの統制、改革派の更迭といったチェルナ会談での「合意」事項を再確認したうえで、22日に臨時に召集された党大会の無効が明記された。また介入軍の撤退問題については、具体的な時期が曖昧なままにされた。
ブレジネフ・ドクトリン
チェコスロヴァキア介入を正当化する論理は、後に「制限主権論」あるいは「ブレジネフ・ドクトリン」と西側で呼ばれた。その主張は、9月26日の『プラウダ』に掲載のコヴァリョフ論文「主権と社会主義諸国の国際的責務」と、11月のポーランド統一労働者党第5回党大会におけるブレジネフの演説(『プラウダ』11月13日掲載)に端的に見られた。つまり「1国の社会主義の危機は社会主義ブロック全体にとっての危機であり、他の社会主義諸国はそれに無関心ではいられず、全体の利益を守ることに、1国の主権は乗越えられる」というものであった。その際、主権は階級的観点から再解釈され、主権尊重と内政不干渉原則よりも社会主義の防衛が上位に置かれた。なお「ブレジネフ・ドクトリン」は、軍事介入を正当化するために、後付で急遽持ち出された論理ではなく、それ以前のワルシャワ書簡やブラティスラヴァ宣言にも同様の論理を見出すことができる。またスターリンやフルシチョフ時代の対東欧政策全般を貫いていた指針である点で、ブレジネフの名を冠しているが、彼の独創的な政策というわけではない。
正常化体制の始まり
モスクワから戻ったドゥプチェクたち指導部は、国民に対し、改革の継続を表明した。しかし、「モスクワ議定書」の履行を求めるソ連と、それに連動する国内親ソ派からの圧力によって、ドゥプチェク指導部の選択肢は次第に狭められていった。たとえば、介入以降チェコスロヴァキアに留まっていたソ連軍の撤退問題は、10月、暫定駐留条約の締結によって、実質的に正当化された(最終的なソ連軍の撤退は1989年の共産党体制崩壊を待たなければならなかった)。改革派への圧力の矛先は、国民の人気が高かったスムルコフスキーに集中し、国民議会議長職から解任された。
その一方、『行動綱領』が掲げた改革政策のうち、連邦制の導入は、10月28日に実施され、1969年1月1日をもって、チェコスロヴァキア社会主義連邦共和国となった。
1969年1月16日、カレル大学の学生ヤン・パラフが軍事介入および改革の後退に抗議し、焼身自殺を図った。3月、ストックホルムで開催していたアイスホッケー世界選手権でチェコスロヴァキア・チームがソ連チームに勝利したニュースが伝わると、多くの国民が街頭に繰り出し、その勝利を祝った。そしてその一部がプラハのアエロフロート事務所に投石する事件に発展した。ソ連は、この事件を反革命勢力による陰謀と断定し、ドゥプチェクに取締りの強化を要求した。
1969年4月、ドゥプチェクに代わり、グスターフ・フサークが党第一書記に就任し、「正常化体制」を進めていき、ここに「プラハの春」は終わりを告げた。
プラハの春の意義・評価
国際共産主義運動の分裂
共産党自身による共産党体制の改革の試みが「社会主義の祖国」ソ連によって押しつぶされた事実は、わずかながらも残っていた「現存社会主義」に対する期待・希望を一掃することになった。その結果、国際共産主義運動は分裂状態に陥った。フランスやイタリアの共産党のように、プロレタリア独裁を放棄し、議会制民主主義の枠内での社会主義理念の実現へと方針転換を図る、いわゆるユーロコミュニズムが台頭する一方で、中国共産党はソ連のチェコスロヴァキア侵攻を「覇権主義」と厳しく非難し、1969年にはダマンスキー島における軍事衝突に発展したように、中ソ対立は修復不可能な状態に達した。こうした国際共産主義運動の動揺は、後述するように、冷戦構造の変容、すなわちデタントをもたらす下地を提供した。一方、キューバのカストロ議長は、ソ連軍のチェコ介入については非難しつつも、共産主義体制維持については支持し、キューバ危機以来のソ連・キューバ間の不信感は解除されることとなった。
チェコスロヴァキア解体の芽
軍事介入によって改革目標の多くが頓挫する中、唯一実現されたのが連邦制の導入だったことは、少なからずチェコとスロヴァキアの間に亀裂を生じさせた。つまり民主化・自由化を犠牲にして連邦化という民族的利害の実現を優先させたという意識がチェコ人の改革派で持たれるようになった。この意識は、スロヴァキア人のフサークが「正常化」路線を推し進め、改革派やそのシンパに対する弾圧を強化し、経済資源を重点的にスロヴァキアに配分し、その工業化を進めたことによってさらに強まった。1977年に出された「憲章77」運動においても、その中心を担ったのはチェコ人であった。このようなチェコとスロヴァキアの認識の相違は、1989年のビロード革命後の移行政策をめぐる対立にも反映され、1993年の連邦解体につながる遠因となった。
東欧革命に対する影響
また東欧諸国の異論派・反体制運動も、共産党による「上からの改革運動」が否定されたことから、党や国家とは別次元の市民社会に政治変革の拠点を求めるようになった。この認識変化は、ポーランドの連帯運動、そして最終的に1989年の東欧革命に帰着することになる。またこうした動きは、政治学における「市民社会の再発見」という学術的な貢献をもたらした。
日本への影響
地理的に遠く離れていたこともあり、日本には直接の影響は無いに等しかった。ただ1968年に東大安田講堂事件が起こった直後であり、その過激思想に疑問を抱いた若年層に政治的無関心(シラケ、ノンポリ)が広がり始めていたが、それに拍車をかけた程度である。とはいえ、「プラハの春」の時期は日本において過激な共産主義運動が徐々に国民の支持を得られなくなっていた時期に合致する。支持を失った団体は過激思想が蔓延し、1972年の連合赤軍あさま山荘事件へとつながっていくことになる。
デタントへの道筋
国際政治レベルにおいても、ソ連がその勢力圏の揺らぎに対して軍事介入という断固たる措置を採ったことは、西側諸国にヨーロッパ分断という現実を再認識させた。その結果、東西の緊張緩和(デタント)を進めるにあたり、まずソ連との関係改善を優先させ、その後東欧各国と交渉するという方式が選択された。別言すれば、「プラハの春」が挫折したことによって、1970年代のデタントを生み出す素地が切り開かれたといえる。