フェルッチオ・ランボルギーニ
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フェルッチオ・ランボルギーニ(Ferruccio Lamborghini, 1916年4月28日 - 1993年2月20日)はイタリアの自動車メーカーアウトモビリ・ランボルギーニSPA(ランボルギーニ)の設立者。
1916年4月28日、ボローニャ市近くのレナッツォ(フェラーラ県チェント市内)に生まれる。実家は裕福な農家。 家業には興味を持たず、幼いころから機械好きで工科大学に進学。卒業後の1939年に徴兵され整備兵となる。1944年に捕虜となり1946年帰国。退役後は軍放出のトラックを元にトラクターの製造販売を行う。1949年にランボルギーニトラットリーチ社を設立。1963年アウトモビリ・ランボルギーニSPAを設立し自動車の製造販売に乗り出す。ボリビアのクーデターにからむトラクター売買契約のキャンセルから資金難に陥り1971年ランボルギーニトラットリーチ社を売却、アウトモビリ・ランボルギーニSPAの株の51%を手放し再建を図るも1972年に訪れたオイルショックにより、1974年に残り49%の株も手放し自動車業界から引退。晩年はワイン作りに情熱を傾けていた。1993年2月20日死去。典型的なイタリアーノで親分肌のフェルッチオを慕う者は、いまだに多いといわれている。
[編集] 俗説
フェルッチオが自動車製造に進出するきっかけになった事件として、以下のような話が伝わっている。
トラクターの製造販売で財を成したフェルッチオは、当時のイタリアの成金の例に漏れずフェラーリを購入。そのフェラーリが故障した際に、送られてきたパーツがランボルギーニトラットリーチ社で使っていた部品と同じ上に、10倍の値段が付いていた事に激怒。フェラーリに乗り込み苦情を言ったが、成金の戯言と鼻であしらわれ、自身で自動車の製造販売に乗り出す事を決意したのだ。
良く知られている彼のモットー; 「(前略)…私は、多くのグラン・トゥリズモの中に、いくつかの欠点を見いだした。暑すぎたり、乗り心地が悪かったり、十分に速くなかったり、仕上げが完全でなかったりするのだ。今や私は欠点のないグラン・トゥリズモを造りたい。技術的な化け物ではなく、正常で、非常に常識的で、しかも完璧なクルマを。」 (他には、この部品をこの値段で買う顧客がいるならいい商売になる、と思いカービジネスを思い立ったという現実的な説もある)自動車フェラーリを買う顧客をターゲットにアウトモビリ・ランボルギーニSPAを設立した。
事実の程は定かではないが、彼が若い頃から熱心なカーマニアで、一時はチューニングカーガレージの経営にまで手を染めていた点や、当時のフェラーリ・ストラダーレの品質は決して高くなかった点、フェラーリの販売台数が年間5000台近い規模に膨らんでいた点などを考えれば、全くの的外れとも言えないであろう。「レースには出ない」と言う社是も、単なる車好きではない、実業家としてのフェルッチオからすれば当然だったのかも知れない。
[編集] 真相
(俗説に対する追記) よく、前述のように言われるがそのような事実はない。 おそらく、ヨーロッパの大衆メディアがよくやる、単なるオモシロ記事を真実と勘違いした日本の自動車関連媒体が国内に伝え、それがファンやアンチファンの間で都市伝説化したと思われる。
事実、国内のある雑誌の企画でインタビューされた、ランボルギーニ夫人は明快に否定している。 彼女が語ったところによると、フェルッチオが自分でフェラーリを使用して見た結果、その品質に疑問を持った点までは事実だが、その後が違う。 実際には、工業機械メーカーのオーナーらしく、彼の考えた改善案を書簡としてエンツォ・フェラーリに送ったが、採用を丁重に断られた為、それなら自分でやってみようと一発奮起してチャレンジした、というのが真相であった。