フラウィウス・ヨセフス
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フラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus, 紀元35年?-紀元100年)は古代イスラエルの著述家。紀元66年に勃発したユダヤ戦争において、はじめユダヤ軍の指揮官として戦ったが、ローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃。後にこの顛末を記した『ユダヤ戦記』をあらわして著述家としての名声を得ることになった。
[編集] 生涯
ヨセフスは本名ヨセフ・ベン・マタティアフ(マタイの子ヨセフ)。祭司の家系に生まれたヨセフスは彼自身の言葉によれば、青年時代にサドカイ派やエッセネ派など当時のユダヤ教の諸派を経て最終的にファリサイ派を選んだという。紀元64年にはユダヤ人の陳情使節の一員としてローマへ赴き、ネロ帝妃ポッパイア・サビナの知己を得ている。
ユダヤ戦争の初期(紀元66年)、ヨセフスは防衛のため、エルサレムからガリラヤへ派遣された。ガリラヤの町ヨタパタを守ってローマ軍と戦ったが敗れた。異邦人への投降をよしとしない守将たちは自決を決議、くじを引いて互いに殺しあったが、ヨセフスは最後の2人になったところでもう1人の兵士を説得、2人で投降した。ローマ軍司令官ウェスパシアヌス(後のローマ皇帝)の前に引き出され、ウェスパシアヌスがローマ皇帝になると予言して命を助けられる。
ネロ帝死後の混乱を経て、実際にウェスパシアヌスが皇帝になると、その息子ティトゥスの幕僚として重用され、エルサレム攻撃に参加。紀元70年のエルサレム陥落を目撃した。71年にティトゥスと共にローマに向かい、終生そこで暮らして厚遇を受け、ローマ市民権と皇帝の氏族名であるフラウィウスという名まで与えられた。
75年から80年までのある時期、ローマで、自分の経験と種々の資料をもとに『ユダヤ戦記』の著わし、高い評価を得た。ヨセフス自身によると、『ユダヤ戦記』にはもともとアラム語版が存在し、それをギリシャ語で書き改めたといわれる。アラム語版は現存せず、現在まで伝わっているのはギリシャ語版の『ユダヤ戦記』である。
さらに、95年ごろ、天地創造からユダヤ人の歴史を説きおろした、スケールの大きな『ユダヤ古代誌』も完成させた。『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言」と呼ばれるイエス・キリストに関する記述があることで有名であったが、現代では後代の加筆・挿入と考えられている。
一見、何不自由のない晩年をすごしたヨセフスであったが、「裏切り者」の烙印、同胞ユダヤ人やローマ人からの非難や中傷に終生悩まされ、それが彼を著述に駆り立てる一因にもなった。
100年ごろ、(おそらく)ローマで死去。
[編集] 著作
- 『ユダヤ戦記』 マカバイ戦争からの歴史的経緯。ユダヤ戦争の詳細。80年ごろ完成。
- 『ユダヤ古代誌』 天地創造から始まるイスラエル民族の歴史。95年ごろ完成。
- 『アピオーンへの反論』 ユダヤ教についての護教的著作。
- 『自伝』 ヨセフスの自己弁護の色が濃い自伝。最晩年の96年ごろに書かれたと考えられている。
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