フランソワ・ケネー
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フランソワ・ケネー (Francois Quesnay,1694年6月4日-1774年12月16日)フランスの経済学者、医師。
初め医学を修め、ポンパドゥール夫人の侍医として1749年にヴェルサイユ王宮に入り、のちルイ15世の侍医にもなった。
1753年頃から経済学の研究を始め、ディドロ等の編集し『百科全書』に「小作人」および「穀作」の2項を寄稿した。農民の立場に関心をもち、当時のフランス社会が、宮廷の奢侈的濫費により農民の租税負担が過重になっていることや、重商主義の強行により労賃の引き下げを目的として穀物の輸出禁止を行い、その結果、農産物価格の下落を招来するような措置等に対して強く反対し、フランス農業再建のために税制の改革と穀物輸出自由の必要を説いた。このように農業を重んじたので「重農学派」と呼ばれ、オノーレ・ミラボーをはじめデュ・ポン・ド・ヌムール、メルシエ・ド・ラ・リヴィエール等に大きな影響を与えた。
医学の方面でも二、三の研究を公けにしたが、最も彼の名を不朽にしたのは、『経済表』(Tableau economique、1758年)である。富の唯一の源泉は土地であり、農業だけが生産的であると考えた。この点については一面的な見方となっており、別の著書で古代中国の農本専制政治を理想社会と考えたことにも見られる。しかし、社会的総資本の再生産の問題を経済学の中心問題とし、再生産過程の主な契機を孤立的に切り離さないで、相互に連関した全体の部分として把握しようとしたことは、経済学説史の上でも画期的な業績である。
カール・マルクスはこの点を高く評価し、自身の「再生産表式」に「経済表」の発想を応用し、さらにレオンチェフの「産業連関表」、ひいてはワルラスの一般均衡論へ引き継がれた。シュンペーターも彼を経済学説史上の三大天才の一人に数えた。彼は自然法の観念を拠り所として自然の秩序を絶対視したから、人為的な政策さえなければ個人の利益はおのずから調和される「自由放任」(laissez faire、laissez passer)という古典派経済学の世界観の先駆をもなした。