ブルゴーニュ王朝
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ブルゴーニュ王朝は1143年にポルトガルを建国し、1383年まで支配したポルトガルの歴史上最初の王朝である。ブルゴーニュはフランス語で、ポルトガル語ではボルゴーニャ王朝と呼ぶ。
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[編集] 王国の成立
フランス・カペー朝の支流ブルゴーニュ公系のアンリ(ポルトガル語、エンリケ)は十字軍運動の一環としてレオン・カスティーリャ王国のレコンキスタに参加し、国王アルフォンソ6世(在位:1065年 - 1109年)から1094年にポルトゥカーレ及びコインブラの伯爵を授けられ、王女テレサと結婚した。アンリ・ド・ブルゴーニュとテレサの子アフォンソ・エンリケスはレオン・カスティーリャのアルフォンソ7世(在位:1126年 - 1157年)に反抗して1128年に自立し、1140年にはポルトガル王アフォンソ1世を称した。ローマ教皇の仲介によりアルフォンソ7世も1143年サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。これがブルゴーニュ王朝の始祖アフォンソ1世である。さらにアフォンソ1世はローマ教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結んで、ローマからも正式に国王として認められた。これによってポルトガルはカスティーリャと対等の王国となった。
[編集] レコンキスタ
レコンキスタをによる南下はさらに続き、1147年アフォンソ1世はイスラム教徒からリスボンを奪還した。イスラムとの戦いはその後も一進一退を繰り返したが、1212年ラズ・ナバズ・デ・トロサでキリスト教軍が決定的な勝利を収め、1249年にはポルトガルの国土は南部海岸に達した。レコンキスタの過程ではテンプル騎士団、ホスピタル騎士団、カラトラヴァ騎士団、アヴィシュ騎士団、サンティアゴ騎士団など宗教騎士団が大きな役割を果たし、レコンキスタ終了後もポルトガルの大荘園領主となった。また王家の信仰を集めるアルコバッサ修道院やコインブラのサンタ・クルス修道院など教会勢力も寄進によって大荘園領主となっている。
[編集] 繁栄期
レコンキスタを完成させたアフォンソ3世は1255年コインブラからリスボンに遷都している。次のディニス王はローマ法を導入して王権を強化し、1290年ヨーロッパでも最古級のコインブラ大学を創設、1297年にはカスティーリャ王国との国境を確定させるなど王朝は最盛期を迎えた。フランドルやイングランドとの交易も活発に行われた。
[編集] 王朝の交代
しかし1348年ポルトガル王国は黒死病に襲われ、さらに1383年、フェルナンド1世王が没すると、後継問題が生じて政治的危機に見舞われる。フェルナンド王の娘ベアトリスはカスティーリャ王子フアンと結婚していたが、ポルトガル王位を請求し、カスティーリャ軍がポルトガルに侵入する。ポルトガルは1385年アルジュバロタの戦いでカスティーリャ軍を撃退、ペドロ1世の私生児でアヴィシュ騎士団長のジョアン1世が国民の支持を得て即位することになる。
[編集] 歴代国王
- アフォンソ1世(在位1128年 - 1185年)
- サンシュ1世(1185年 - 1211年)
- アフォンソ2世(1211年 - 1223年)
- サンシュ2世 (1223年 - 1248年)
- アフォンソ3世(1248年 - 1279年)
- ディニス(1279年 - 1325年)
- アフォンソ4世(1325年 - 1357年)
- ペドロ1世(1357年 - 1367年)
- フェルナンド1世(1367年 - 1383年)
- ベアトリス(1383年 - 1385年) 僭称説が強い。僭称説の場合は空位期間となる。