ヘンリー・ベネディクト・ステュアート
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ヘンリー・ベネディクト・マリア・クレメント・トマス・フランシス・ザヴィア・ステュアート(Henry Benedict Maria Clement Thomas Francis Xavier Stuart , 1725年3月11日 - 1807年7月13日)は、ジャコバイトの主張するイングランドおよびスコットランドの王位継承者。ジャコバイトによって「イングランドとアイルランドの王ヘンリー9世およびスコットランド王ヘンリー1世」と呼ばれるが、自身では「ヨーク枢機卿公」(Cardinal-Duke of York)と称した。
父ジェームズ老僭王や兄チャールズ若僭王と異なり、ヘンリー・ベネディクト・ステュアートはイギリス王位奪還のための活動を行なわなかった。ヘンリーは教皇領でカトリック教会の聖職者(枢機卿)として一生を終え、未婚だった彼の死去によってジェームズ2世の嫡子孫は絶えた。
ヘンリー・ベネディクト・ステュアートはイングランド王ジェームズ2世の息子のジェームズ老僭王と、ポーランド王ヤン3世ソビエスキの孫娘メアリー・カシミア・クレメンティナ・ソビエスカの間に次男として1725年3月11日に、父が亡命していたローマで生まれた。ヘンリーはその日のうちにローマ教皇ベネディクトゥス13世によって洗礼され(ベネディクトの名は教皇にちなむ)、同年父によってヨーク公に叙された。
1789年にフランス革命が勃発すると、ヘンリーはフランス王からの援助を失って窮地に立たされた。これを見かねたイギリスの駐ヴェネツィア公使はヘンリーに対して年金を支払うようジョージ3世に掛け合い、ヘンリーは4000ポンドの年金を受け取った。なおイギリス政府はこれを純粋な慈善行為としていたが、ヘンリーやジャコバイトはイギリス政府が返還すると約束していたメアリー・オブ・モデナ(ジェームズ2世の王妃でヘンリーの祖母)の結婚持参金の分割払いとみなしていた。
ヘンリーは1807年7月13日にフラスカーティで死去した。82歳であった。遺体は両親や兄と同じくバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に葬られている。ヘンリーの死後、ジャコバイトの主張するイギリス王位は、チャールズ1世の娘ヘンリエッタ・アンの血を引く遠戚のサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世やその子孫へと継承されたが、彼らがイギリス王位を請求することはなかった。
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