ポーランド・リトアニア連合
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ポーランド・リトアニア連合または二つ国民の共和国(ポーランド語: Rzeczpospolita Obojga Narodów; ベラルーシ語: Рэч Паспалітая Абодвух Народаў; リトアニア語: Abiejų tautų respublika;ウクライナ語: Річ Посполита Двух Народів;1569年ー1795年 )は、ポーランド王国とリトアニア大公国による国家連合。しばしば、貴族の共和国とも呼ばれた。この連合国家は、1569年にルブリン合同を結ぶことによって誕生したのである。
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[編集] 連合の前提
リトアニア大公ミンダウカス(在位:1246年 - 1263年)の時代からリトアニアはドイツ騎士団の進出に悩まされていた。ミンダウカスの孫ゲディミナスはドイツ騎士団に対抗するため、ポーランド王国と婚姻関係を通じて同盟を結んだ。このため、ポーランドとリトアニアは非常に親密な関係に結ばれることとなる。
ゲディミナスの子アルギルダスの死後、その子ヨガイラ(のちのポーランド王ヴワディスワフ2世)と叔父のケストゥティスとの間で、リトアニア大公の座をめぐっての争いが起こる。この争いはヨガイラがケストゥティスを殺害することで勝利した。そしてヨガイラはポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、1386年に自らもポーランド王として即位してヤギェウォ朝を開いた。こうしてポーランド・リトアニア連合が成立する。
一方、ケストゥティスの遺児ヴィトフト(ヴィタウタス)は父が殺されたためプロイセンに亡命していたが、やがて父の仇であるヴワディスワフ2世と和解して帰国した。そして1401年、ポーランド王となっていたヴワディスワフ2世からリトアニア大公の地位を譲られ、リトアニアの統治を行なうこととなる。
1410年、タンネンベルクの戦いにおいてポーランド・リトアニア連合軍はドイツ騎士団に大勝した。1413年にはボロドレ協定を結んで両者は関係を強化している。しかし、1430年にヴィトフトが死去すると、リトアニアは実質的にポーランドの支配下に置かれることとなり、ポーランド王国はポーランド・リトアニア連合王国へと変貌していったのであった。
[編集] 連合成立
[編集] 「黄金の時代」
[編集] 衰退
[編集] 隣国による分割