マツダ・ロードペーサー
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ロードペーサー | |
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製造期間 | 1975年 – 1979年 |
ボディタイプ | 4ドア セダン |
エンジン | 13B型 ロータリーエンジン |
トランスミッション | 3速AT |
全長 | 4850mm |
全幅 | 1885mm |
全高 | 1465mm |
車両重量 | 1575kg |
トレッド前後 | 1530ミリメートル |
総排気量 | 654×2 |
最高出力 | 135ps/6000rpm |
最大トルク | 19.0/4000rpm |
最高速度 | 165キロメートル |
タイヤサイズ | 7.50-144p |
パワーウェイトレシオ | 11.6キログラム/ps |
乗車定員 | 5人/6人 |
車台が共通の車種 | GMインターミディーエート(プレミアー) |
同クラスの車種 | トヨタ・センチュリー 日産・プレジデント 三菱・デボネア クライスラー318 GMホールデン・ステーツマン・デ・ビル |
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ロードペーサー(ROADPACER)は、かつて発売されたマツダのプレステージカー(高級車)。マツダ初の3ナンバー車だった。
目次 |
[編集] 車名の由来
- 英語で「道路の王様」という意味。
[編集] 誕生のきっかけ
1970年代前半、それまで日本メーカーによる富裕層向け最高級乗用車はトヨタ自動車のセンチュリーと日産自動車のプレジデントに限られていたが、日本の経済成長によって最高級車市場の拡大の動きがあり、マツダはいすゞ自動車、三菱自動車とともに最高級車市場への参入を図った。
しかしこの3社はトヨタや日産のように高級車を自社独自で開発するような企業体力はなかった。そこでいすゞ自動車と三菱自動車は外国メーカーとの提携関係を活かし、日本と同じ右ハンドルであるオーストラリア製の乗用車を輸入し、日本の基準に適合するよう最小限の改造(当時日本で認可されていなかったドアミラーをフェンダーミラーにするなど)を施した上で自社系販売店で販売した。だがマツダは外国メーカーとの提携が全くなかったため(当時フォードとはまだ提携していなかった)、オーストラリアのGMホールデン社と部品購入契約を交わすことで最高級車を開発した。こうしてロードペーサーが誕生したのであった。
ボディーなどはホールデン社から購入し、エンジンは、マツダの13B型ロータリーエンジンを搭載し発売した。トランスミッションはJATCO (日本自動変速機)製3速AT。目標販売台数は月間100台。ベース車はGMのインターミディーエート(プレミアー)であった。プレミアーは当時いすゞが上記の施策により輸入したステーツマン・デ・ビルの姉妹車だった。
[編集] 歴史
- 1975年4月 - 発売。
- 1975年10月 - 51年排ガス規制適応、一部変更。
- 1977年8月 - 一部変更(セーフティーパネルの設置、間欠ワイパー、トランクオープナーの追加、コンビネーションスイッチの採用、ボディー色の追加)
- 1977年 - 生産終了(1979年まで販売は続いたが、1977年に生産終了の説がある)
- 1979年 - 販売終了。総生産・販売台数799台
[編集] 累計販売台数
[編集] グレード、価格
- 5人乗り(フロントセパレードシート)、371.0万円。
- 6人乗り(フロントベンチシート)、368.0万円。
ちなみに、前期型と後期型ではスピードメーターが丸型になり、フロントグリルの格子の形状が変更される。
[編集] 生産終了への道
当時の価格はセンチュリーやプレジデントをも上回る高価格で、割高感が感じられ、販売不振だった。また、マツダ自体の経営不振により、プレステージカーを製造・発売する余裕がなくなったので、ライバルのセンチュリーやプレジデントのように長期にわたって販売される事なく、製造を1977年に打ち切り(1979年まで販売が続けられたが、1977年に生産終了したとの説がある)、ロードペーサーは短命に終わった。生産・販売台数は799台。