ミゲル・インドゥライン
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男子 自転車競技 | ||
金 | 1996 | 個人タイムトライアル |
ミゲル・アンヘル・インドゥライン・ララヤ(Miguel Ángel Induráin Larraya、1964年7月16日 - )は、スペインの自転車プロロードレース選手。バスク出身。1991年から1995年にかけてツール・ド・フランス個人総合5連覇を達成したほか、1992年・1993年のジロ・デ・イタリア個人総合優勝、1995年の世界選手権など、数多くのタイトルを獲得した。日本ではミゲル(もしくはミゲール)・インデュラインと表記されることが多い。
[編集] 略歴
1975年より自転車のロードレースへの参戦を開始。1985年にプロに転向し、レイノルズチームと契約を結ぶ。しかし1980年代のインドゥラインは主にアシストとして活動しており、1988年のツール・ド・フランスでは、チームのエースだったペドロ・デルガドのアシストとして、デルガドの個人総合優勝に貢献した。
そんなインドゥラインの環境が変わり始めたのは1989年にツール・ド・フランスで初めてステージ優勝(第9ステージ)を遂げたあたりから。1990年にはチームのスポンサーがレイノルズからバネストに交代し、インドゥラインもパリ~ニース総合優勝、クラシカ・サンセバスティアン優勝などの成績を挙げ、チームにおいてもデルガドに次ぐNo.2のポジションを確立する。
1991年のツール・ド・フランスでは、当初チームはデルガドをエースに立てていたものの、インドゥラインのあまりの好調ぶりにデルガドが途中でエースの交代を認め、そのままインドゥラインは初のツール総合優勝を遂げた。1992年・1993年にはツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリアの両レースで総合優勝を遂げ、いわゆる「ダブルツール」を達成。ダブルツールを2年連続で成し遂げた選手は後にも先にもインドゥラインただ一人。1994年はジロ・デ・イタリアでエフゲニー・ベルツィンらに敗れ総合3位に終わり力が落ちたかと思われたが、ツール・ド・フランスでは全く危なげない様子で4連覇。その直後にはアワーレコードに挑戦し、1時間で53.040kmを走りきり見事世界記録を更新した。
1995年はジロ・デ・イタリア参戦を見送ってツール・ド・フランスに集中し、当時前人未到だった個人総合5連覇を達成しただけでなく、世界選手権(ロード・タイムトライアル)に優勝し三大タイトルを手中にする。この三大タイトル獲得、つまりトリプルクラウン(ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランス、世界選手権)を達成しているのは、過去にエディ・メルクスとステファン・ロッシュ、インドゥラインの3人のみである。
インドゥラインのレーススタイルは、基本的にタイムトライアルでライバルに大差を付けた上で、その差を山岳ステージでコントロールするというもの。その大柄な体格から山岳コースが苦手と思われがちだが、実際にはアシスト時代にはデルガドの山岳アシストとして活躍していたように山岳コースを得意としており、山岳でインドゥラインが先頭に立つとライバルのほとんどはそれに付いて行くのがやっとという状態になるのが常だった。こういったレーススタイルは、その後ランス・アームストロングに受け継がれることになる。
1996年のツール・ド・フランスはインドゥラインの故郷であるスペイン・バスク地方を通るコース設定がなされ、インドゥラインが6連覇で地元に凱旋することが期待されていたが、この年のツール・ド・フランスはドイツテレコムチームのビャルヌ・リース、ヤン・ウルリッヒの2人が絶好調、また途中のステージでハンガーノック(水や行動食の補給のミスにより極端にペースが落ちること)に陥ったこともあり、インドゥラインはこの2人に付いて行くことができず総合11位に終わり6連覇を逃す。その直後に行われたアトランタオリンピックの自転車競技・個人タイムトライアルで金メダルを獲得し健在振りを見せたものの、本人のモチベーションが明らかに低下していることは周囲からも見て取れるほど。結局翌1997年1月、バネストとの契約切れを待ってインドゥラインは現役引退を発表した。
引退後はスペインオリンピック委員会の委員、UCI(国際自転車競技連合)のプロフェッショナル自転車委員会の委員を務めている。2005年11月には、現役時代の功績により国際フェアプレー賞を受賞した。
[編集] 外部リンク
- Official homepage(スペイン語)
- Le Site de Miguel Indurain(英語、フランス語)
カテゴリ: スペインの自転車選手 | バスク人 | 1964年生