モニカ・セレシュ
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モニカ・セレシュ |
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基本情報 |
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英語名 | Monica Seles |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ユーゴスラビア・ノヴィサド |
居住地 | アメリカ・フロリダ州サラソタ |
生年月日 | 1973年12月2日 |
身長 | 179cm |
体重 | 70kg |
利き手 | 左 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1989年 |
ツアー通算 | 59勝 |
シングルス | 53勝 |
ダブルス | 6勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | 優勝(1991-93・96) |
全仏 | 優勝(1990-92) |
全英 | 準優勝(1992) |
全米 | 優勝(1991・92) |
優勝回数 | 9(全豪4・全仏3・全米2) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 1位 |
ダブルス | 16位 |
Template |
女子 テニス | ||
銅 | 2000 | シングルス |
モニカ・セレシュ (セレシュ・モーニカ、Monica Seles, Monika Seleš, Моника Селеш, Szeles Mónika, 1973年12月2日 - )は、旧ユーゴスラビア(セルビア)・ヴォイヴォディナ自治州ノヴィサド出身のマジャル人で、現在はアメリカ国籍の女子プロテニス選手。フロリダ州サラソタ在住。「セレス」と呼ばれることも多い。
左利きだが、フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちで、そこから繰り出される強烈なショットを最大の持ち味とする。これまでにWTAツアーでシングルス53勝、ダブルス6勝を挙げている。
1989年に15歳でプロ転向後、セレシュはすぐに世界的な活躍を始めた。4月末にアメリカ・ヒューストンの大会でクリス・エバートを決勝で 3-6, 6-1, 6-4 で破り、WTAツアー初優勝を飾る。その年初出場した全仏オープンでいきなり準決勝進出を果たし、初対戦のシュテフィ・グラフに 3-6, 6-3, 3-6 で敗れたものの善戦する。翌1990年の全仏オープンでは、決勝でシュテフィ・グラフを 7-6, 6-4 のストレートで圧倒し、「16歳6ヶ月」の当時の4大大会最年少優勝記録を樹立した。(これは現在も全仏オープン女子シングルスの大会最年少優勝記録である。4大大会女子シングルスの最年少優勝記録は、1997年全豪オープンに「16歳3ヶ月」で優勝したマルチナ・ヒンギスによって破られた。)1991年3月11日には、史上最年少の「17歳3ヶ月」で世界ランキング1位の座につき、グラフの世界1位連続保持記録を「186週」で止めた。1990年-1992年に全仏オープン3連覇、1991年-1993年に全豪オープン3連覇、1991年と1992年に全米オープン2連覇を達成するなど、1990年から1993年の4月までは彼女の絶頂期であった。
しかし1993年4月30日、セレシュはドイツ・ハンブルクの「シチズンカップ」準々決勝でブルガリアのマグダレナ・マレーバとの対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された。この事件が競技中に起きたことから、全スポーツ界に大きな衝撃が広がる。セレシュはこの後遺症により(PTSDと考えられる)、2年以上試合から遠ざかった。(暴漢はグラフの“熱狂的ファン”と自称し、「セレシュをけがさせれば、その間試合に出場できなくなるので、グラフが再び世界1位に返り咲けると思った」と犯行動機を話している。)この事件によるブランク期間中の1994年3月、モニカ・セレシュはアメリカ市民権を取得した。なお、この事件以降セレシュはドイツ国内でのプレーを拒否しており、2001年より年間最終戦のWTAツアー選手権がアメリカ、ニューヨークからドイツ、ミュンヘンへ開催地を移転する際にも、「(来年)仮に出場資格を得たとしても、欠場するだろう。」と言ったほどである。(2000年)
1995年8月、セレシュはようやくカナダオープンで復帰を果たす。その準決勝ではガブリエラ・サバティーニ、決勝でアマンダ・クッツァーを破り、復帰戦を優勝で飾った。翌月の全米オープンでは第2シードで出場。決勝ではライバルのシュテフィ・グラフに 6-7, 6-0, 3-6 で敗れたが、以前と変わらない大接戦で、ブランクを全く感じさせなかった。翌1996年には、セレシュは全豪オープンで復帰後初の4大大会優勝。この勝利により達成した4大大会女子シングルス通算9勝は、モーリーン・コノリーと並ぶ女子歴代8位タイ記録である。
その後はけがによる不振や、マルチナ・ヒンギス、ヴィーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹など若手の台頭により、4大大会の優勝から遠ざかっている。その後の4大大会で、最も優勝に近かったのは1998年全仏オープンであった。大会直前の5月16日、長年彼女を支え続けてきた父親が死去したばかりであった。その悲しみを乗り越え、準決勝で第1シードのマルチナ・ヒンギスを破り、全仏オープンでは6年ぶり4度目、4大大会では1996年全米オープン以来となる決勝進出を果たした。決勝戦の対戦相手は、それまでの対戦成績が14勝2敗のアランチャ・サンチェスであり、圧倒的にセレシュ有利と言われたが、サンチェスの粘りのテニスに屈し 6-7, 6-0, 2-6 で敗れて準優勝に終わった。これは、セレシュが4大大会決勝戦でグラフ以外の選手に初めて(唯一)敗れた試合であり、また(現時点で)彼女の最後の4大大会決勝戦でもある。
2003年の全仏オープン1回戦でナディア・ペトロワ(ロシア)に敗退して以降、足の故障により公式戦には出場していない。(2005年2月、ニュージーランドでマルチナ・ナブラチロワと2度のエキシビションマッチを行ったが、いずれも敗戦している。)同年12月、2006年末までに公式戦に出場できないようであればラケットを置くことになる、と引退を示唆するコメントを発表した。その際には「私はまだ練習に励み、挑戦を続けている。でも同時に現実主義者でもある」と話している。
著書に『私は負けない』(1996年刊行、原題:“From Fear to Victory”、直訳では「恐れから勝利へ」の意味)がある。
[編集] 4大大会優勝
- 全豪オープン:4勝(1991年-1993年、1996年) [大会3連覇を含む]
- 全仏オープン:3勝(1990年-1992年) [大会3連覇。初優勝の1990年は大会史上最年少記録]
- 全米オープン:2勝(1991年&1992年) [復帰後の1995年&1996年、2年連続準優勝]
- (ウィンブルドン準優勝1度:1992年)
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
---|---|---|---|
1990年 | 全仏オープン | シュテフィ・グラフ | 7-6, 6-4 |
1991年 | 全豪オープン | ヤナ・ノボトナ | 5-7, 6-3, 6-1 |
1991年 | 全仏オープン | アランチャ・サンチェス | 6-3, 6-4 |
1991年 | 全米オープン | マルチナ・ナブラチロワ | 7-6, 6-1 |
1992年 | 全豪オープン | メアリー・ジョー・フェルナンデス | 6-2, 6-3 |
1992年 | 全仏オープン | シュテフィ・グラフ | 6-2, 3-6, 10-8 |
1992年 | 全米オープン | アランチャ・サンチェス | 6-3, 6-3 |
1993年 | 全豪オープン | シュテフィ・グラフ | 4-6, 6-3, 6-2 |
1996年 | 全豪オープン | アンケ・フーバー | 6-4, 6-1 |
[編集] 4大大会女子シングルス優勝記録
- 1位:24勝 マーガレット・スミス・コート(オーストラリア)
- 2位:22勝 シュテフィ・グラフ(ドイツ)
- 3位:19勝 ヘレン・ウィルス・ムーディ(アメリカ)
- 4位タイ:18勝 クリス・エバート(アメリカ)、マルチナ・ナブラチロワ(チェコスロバキア → アメリカ)
- 6位タイ:12勝 ビリー・ジーン・キング(アメリカ) [スザンヌ・ランラン(フランス)は、国際大会以前の全仏選手権6勝を含めて通算12勝]
- 8位タイ:9勝 モーリーン・コノリー(アメリカ)、* モニカ・セレシュ(ユーゴスラビア → アメリカ)
- *は現役選手。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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