シュテフィ・グラフ
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シュテフィ・グラフ |
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---|---|
基本情報 |
|
英語名 | Steffi Graf |
フルネーム | Stefanie Maria Graf |
愛称 | シュテフィ |
国籍 | ![]() |
出身地 | 同・ブリュール |
生年月日 | 1969年6月14日 |
身長 | 175cm |
体重 | 59kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
ツアー経歴 |
|
デビュー年 | 1982年 |
引退年 | 1999年 |
ツアー通算 | 118勝 |
シングルス | 107勝 |
ダブルス | 11勝 |
生涯通算成績 | 1073勝187敗 |
シングルス | 900勝115敗 |
ダブルス | 173勝72敗 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | 優勝(1988-90・94) |
全仏 | 優勝(1987・88・93・95・96) |
全英 | 優勝(1988・89・91-93・ 95・96) |
全米 | 優勝(1988・89・93・95・96) |
優勝回数 | 22(豪4・仏6・英7・米5) 通算22勝は女子歴代2位 |
キャリア自己最高ランキング |
|
シングルス | 1位 |
ダブルス | 9位 (?) |
Template |
女子 テニス | ||
金 | 1988 | シングルス |
銀 | 1992 | シングルス |
銅 | 1988 | ダブルス |
シュテフィ・グラフ(Steffi Graf, 1969年6月14日 - )は、旧西ドイツ・ブリュール生まれの女子プロテニス選手。本名は「シュテファニー・マリア・グラフ」(Stefanie Maria Graf)というが、「シュテフィ・グラフ」の名前で最もよく知られている。2歳年上のボリス・ベッカーとともに、ドイツのテニス界の黄金時代を築いたスター選手である。フォアハンド・ストロークの強打とバックハンド・スライスを武器にした選手で、ドイツでは“Fräulein Forehand”(フロイライン・フォアハンド、「フォアハンド嬢」の意味)と呼ばれた。どんなサーフェス(表面)のテニスコートでも安定した強さを発揮する選手であり、テニス界屈指の実力派美人選手として人気も高かった。WTAツアーでシングルス107勝(女子歴代3位)、ダブルス11勝を挙げた。
4歳からテニスを始め、1982年10月に13歳4ヶ月の若さでプロ入り。プロデビュー戦では、ドイツ・フィルダーシュタットの「ポルシェ・グランプリ」1回戦でトレーシー・オースチンに敗れた。1984年のロサンゼルス五輪で、テニスは正式競技として復活する前に、21歳以下の選手による「公開競技」として行われ、当時15歳のグラフは第8シードから優勝を果たす。1985年に初めて女子世界ランキングトップ10入りを果たしたが、グラフのWTAツアー初優勝は比較的遅く、1986年4月の「ヒルトンヘッド」大会でクリス・エバートを破った優勝から始まる。この優勝を皮切りに、1986年に女子ツアーで年間8勝を記録する。
1987年6月5日に全仏オープン決勝戦でマルチナ・ナブラチロワを 6-4, 4-6, 8-6 で破り、4大大会初優勝を達成。その年の8月16日に世界ランキング1位となり、1991年3月11日まで「186週」連続世界1位の座を保持した。1988年に19歳で女子テニス史上3人目の年間グランドスラムを達成する。この年に開催されたソウル五輪でも金メダルを獲得し、その偉業は「ゴールデン・スラム」と称えられた。「ゴールデン・スラム」達成は男女を通じてグラフしかいない。
オリンピックにおけるテニス競技は、1928年のアムステルダム五輪以後、プロ選手の登場により除外されていた。しかし1988年のソウル五輪でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。グラフは早くからオリンピック参加に積極的な姿勢を示し、1984年のロサンゼルス五輪「公開競技」で優勝した後、ソウル五輪の女子シングルス決勝でガブリエラ・サバティーニを 6-3, 6-3 で破って金メダルを獲得した。しかし、1992年のバルセロナ五輪決勝では当時16歳のジェニファー・カプリアティに 6-3, 3-6, 4-6 で敗れて連続金メダルを逃し、1996年のアトランタ五輪では左膝故障のため出場断念を余儀なくされている。
その後も長く活躍し、4大大会優勝は「22勝」(全豪オープン4勝+全仏オープン6勝+ウィンブルドン7勝+全米オープン5勝=22勝)にのぼり、マーガレット・コート夫人の「24勝」に続く女子歴代2位になった。世界ランキング1位の在位記録は通算「377週」で、男女を通じて史上最長記録である。グラフは1988年・1993年・1995年・1996年と「4度」にわたり赤土の全仏オープンと芝生のウィンブルドン連続制覇を成し遂げたが、これは男子のビョルン・ボルグが1978年 - 1980年に成し遂げた「3度」を上回る過去最高記録である。
女子国別対抗戦・フェドカップ(旧名称「フェデレーション・カップ」)の西ドイツ代表(東西ドイツ再統一が実現した1990年以後は、統一ドイツ代表)としても、1987年と1992年の2度優勝を飾っている。しかしフェドカップのグラフには意外な敗戦も多く、1993年の1回戦ではオーストラリア代表のニコル・プロビスに敗れたことがあり、1996年4月28日に日本の東京・有明コロシアムで行われた「ワールドグループ」1回戦では伊達公子に 6-7, 6-3, 10-12 で敗れている。この試合ではグラフが第1セットを 5-0 でリードしていたが、ここから伊達が大逆転で先取し、第2セットはグラフが奪い返したが、第3セットは22ゲーム目までもつれ、伊達が7度目の対戦でグラフから初勝利を奪った。2勝2敗で迎えた最後のダブルス戦で、グラフとアンケ・フーバーのペアは杉山愛&長塚京子組に 6-4, 3-6, 3-6 の逆転負けを喫し、ドイツは日本に敗退した。(フェド杯対戦表)
シュテフィ・グラフが伊達公子に敗れたのは1996年フェド杯1回戦の1度だけであるが、同年7月のウィンブルドン準決勝では伊達と2日がかりの試合を戦った。グラフが 6-2, 2-0 とリードした後、第2セット・第3ゲームから伊達が6ゲーム連取し、セットカウント 1-1 となったところで日没順延になる。翌日に再開された最終第3セットはグラフが取り、1996年7月4日 - 5日にかけて行われた試合は、グラフが 6-2, 2-6, 6-3 で勝った。「グラフ vs. 伊達」の最後の公式戦2試合は、当時の日本のテニスファンが最も盛り上がった瞬間と言えるだろう。
グラフは25歳を過ぎた頃から身体の故障の蓄積が目立ち始め、1995年・1996年と全豪オープンを欠場するなど、出場試合を制限していた。1997年2月1日に東京体育館の「東レ・パン・パシフィック・テニス」の準決勝でブレンダ・シュルツ・マッカーシー(オランダ)と対戦中に左膝の故障が悪化、2月2日にマルチナ・ヒンギスとの決勝を棄権する。治療のため休養に入り、同年3月31日に当時16歳のヒンギスに世界ランキング1位の座を明け渡した。(これでグラフの世界ランキング1位生涯保持記録は「377週」で終わった。)5月にいったん復帰するが、全仏オープン準々決勝でアマンダ・クッツァーに敗退する。全仏終了後の6月10日に左膝の手術を受け、復帰までに8ヶ月の長期間を要した。その間に若手の新勢力が次々と台頭する中、1999年6月5日の全仏オープン決勝戦でマルチナ・ヒンギスとの“新旧女王対決”に勝ち、全仏で3年ぶり6度目の優勝を飾る。これが自身最後の4大大会優勝(22勝目)となった。続くウィンブルドンでは、決勝でリンゼイ・ダベンポートに 4-6, 5-7 で敗退する。その後左膝の故障が再発し、8月13日に世界ランキング3位で現役を引退した。グラフは結局、4大大会優勝の女子歴代1位記録保持者マーガレット・コート夫人(オーストラリア)の「24勝」に“あと2勝”追いつけなかった。
現役引退後の2001年10月22日にアンドレ・アガシ選手と結婚。2004年7月11日に国際テニス殿堂入りを果たした。また、1998年12月に設立した基金「チルドレン・フォー・トゥモロー」(Children for Tomorrow)を通して、慈善活動にも積極的に携わっている。
[編集] 4大大会優勝
- 全豪オープン:4勝(1988年、1989年、1990年、1994年)
- 全仏オープン:6勝(1987年、1988年、1993年、1995年、1996年、1999年) [大会歴代2位]
- ウィンブルドン:7勝(1988年、1989年、1991年、1992年、1993年、1995年、1996年) [大会歴代3位]
- 全米オープン:5勝(1988年、1989年、1993年、1995年、1996年)
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
---|---|---|---|
1987年 | 全仏オープン | ![]() |
6-4, 4-6, 8-6 |
1988年 | 全豪オープン | ![]() |
6-1, 7-6 |
1988年 | 全仏オープン | ![]() |
6-0, 6-0 |
1988年 | ウィンブルドン | ![]() |
5-7, 6-2, 6-1 |
1988年 | 全米オープン | ![]() |
6-3, 3-6, 6-1 |
1989年 | 全豪オープン | ![]() |
6-4, 6-4 |
1989年 | ウィンブルドン | ![]() |
6-2, 6-7, 6-1 |
1989年 | 全米オープン | ![]() |
3-6, 7-5, 6-1 |
1990年 | 全豪オープン | ![]() |
6-3, 6-4 |
1991年 | ウィンブルドン | ![]() |
6-4, 3-6, 8-6 |
1992年 | ウィンブルドン | ![]() |
6-2, 6-1 |
1993年 | 全仏オープン | ![]() |
4-6, 6-2, 6-4 |
1993年 | ウィンブルドン | ![]() |
7-6, 1-6, 6-4 |
1993年 | 全米オープン | ![]() |
6-3, 6-3 |
1994年 | 全豪オープン | ![]() |
6-0, 6-2 |
1995年 | 全仏オープン | ![]() |
7-5, 4-6, 6-0 |
1995年 | ウィンブルドン | ![]() |
4-6, 6-1, 7-5 |
1995年 | 全米オープン | ![]() |
7-6, 0-6, 6-3 |
1996年 | 全仏オープン | ![]() |
6-3, 6-7, 10-8 |
1996年 | ウィンブルドン | ![]() |
6-3, 7-5 |
1996年 | 全米オープン | ![]() |
7-5, 6-4 |
1999年 | 全仏オープン | ![]() |
4-6, 7-5, 6-2 |
[編集] 4大大会女子シングルス優勝記録
- 1位:24勝 マーガレット・スミス・コート(オーストラリア)
- 2位:22勝 シュテフィ・グラフ(ドイツ)
- 3位:19勝 ヘレン・ウィルス・ムーディ(アメリカ)
- 4位タイ:18勝 クリス・エバート(アメリカ)、マルチナ・ナブラチロワ(チェコスロバキア → アメリカ)
- 6位タイ:12勝 ビリー・ジーン・キング(アメリカ) [スザンヌ・ランラン(フランス)は、国際大会以前の全仏選手権6勝を含めて通算12勝]
- 8位タイ:9勝 モーリーン・コノリー(アメリカ)、* モニカ・セレシュ(ユーゴスラビア → アメリカ)
- *は現役選手。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- シュテファニー・グラフ公式サイト (ドイツ語、英語)
- シュテフィ・グラフ - WTAツアーのプロフィール(英語)
- フェドカップ成績表
女子テニス世界ランキング1位 | |
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ヴィーナス・ウィリアムズ | セリーナ・ウィリアムズ | ジュスティーヌ・エナン | クリス・エバート | トレーシー・オースチン | ジェニファー・カプリアティ | キム・クライシュテルス | シュテフィ・グラフ | アランチャ・サンチェス | マリア・シャラポワ | モニカ・セレシュ | リンゼイ・ダベンポート | マルチナ・ナブラチロワ | マルチナ・ヒンギス | アメリ・モレスモ | |
|
オープン化以後 | (1969年・70年・71年)マーガレット・スミス・コート | (1972年)バージニア・ウェード | (1973年)マーガレット・スミス・コート | (1974年・75年・76年・77年12月)イボンヌ・グーラゴング | (1977年1月)ケリー・レイド | (1978年)クリス・オニール | (1979年)バーバラ・ジョーダン | (1980年)ハナ・マンドリコワ | (1981年)マルチナ・ナブラチロワ | (1982年)クリス・エバート・ロイド | (1983年)マルチナ・ナブラチロワ | (1984年)クリス・エバート・ロイド | (1985年)マルチナ・ナブラチロワ | (1986年)大会開催なし | (1987年)ハナ・マンドリコワ | (1988年・89年・90年)シュテフィ・グラフ | (1991年・92・93年) モニカ・セレシュ | (1994年)シュテフィ・グラフ | (1995年)マリー・ピエルス | (1996年)モニカ・セレシュ | (1997年・98年・99年)マルチナ・ヒンギス | (2000年)リンゼイ・ダベンポート | (2001年・02年)ジェニファー・カプリアティ | (2003年)セリーナ・ウィリアムズ | (2004年)ジュスティーヌ・エナン・アーデン | (2005年)セリーナ・ウィリアムズ | (2006年)アメリ・モレスモ | (2007年)セリーナ・ウィリアムズ | |
オープン化以後 | (1968年)ナンシー・リッチー | (1969年・70年)マーガレット・スミス・コート | (1971年)イボンヌ・グーラゴング | (1972年)ビリー・ジーン・キング | (1973年)マーガレット・スミス・コート | (1974年・75年)クリス・エバート | (1976年)スー・バーカー | (1977年)ミマ・ヤウソベッツ | (1978年)バージニア・ルジッチ | (1979年・80年)クリス・エバート・ロイド | (1981年)ハナ・マンドリコワ | (1982年)マルチナ・ナブラチロワ | (1983年)クリス・エバート・ロイド | (1984年)マルチナ・ナブラチロワ | (1985・86年)クリス・エバート・ロイド | (1987年・88年)シュテフィ・グラフ | (1989年)アランチャ・サンチェス | (1990年・91年・92年) モニカ・セレシュ | (1993年)シュテフィ・グラフ | (1994年)アランチャ・サンチェス | (1995年・96年)シュテフィ・グラフ | (1997年)イバ・マヨリ | (1998年)アランチャ・サンチェス | (1999年)シュテフィ・グラフ | (2000年)マリー・ピエルス | (2001年)ジェニファー・カプリアティ | (2002年)セリーナ・ウィリアムズ | (2003年)ジュスティーヌ・エナン・アーデン | (2004年)アナスタシア・ミスキナ | (2005年・06年)ジュスティーヌ・エナン・アーデン | |
オープン化以後 | (1968年)ビリー・ジーン・キング | (1969年)アン・ヘイドン・ジョーンズ | (1970年)マーガレット・スミス・コート | (1971年)イボンヌ・グーラゴング | (1972年・73年)ビリー・ジーン・キング | (1974年)クリス・エバート | (1975年)ビリー・ジーン・キング | (1976年)クリス・エバート | (1977年)バージニア・ウェード | (1978年・79年)マルチナ・ナブラチロワ | (1980年)イボンヌ・グーラゴング・コーリー | (1981年)クリス・エバート・ロイド | (1982年・83年・84年・85年・86年・87年)マルチナ・ナブラチロワ | (1988年・89年)シュテフィ・グラフ | (1990年)マルチナ・ナブラチロワ | (1991年・92年・93年) シュテフィ・グラフ | (1994年)コンチタ・マルチネス | (1995年・96年)シュテフィ・グラフ | (1997年)マルチナ・ヒンギス | (1998年)ヤナ・ノボトナ | (1999年)リンゼイ・ダベンポート | (2000年・01年)ヴィーナス・ウィリアムズ | (2002年・03年)セリーナ・ウィリアムズ | (2004年)マリア・シャラポワ | (2005年)ヴィーナス・ウィリアムズ | (2006年)アメリ・モレスモ | |
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1900年:シャーロット・クーパー | 1908年:ドロテア・ダグラス・チャンバース | 1912年:マルグリット・ブロクディス | 1920年:スザンヌ・ランラン | 1924年:ヘレン・ウィルス | 1988年:シュテフィ・グラフ | 1992年:ジェニファー・カプリアティ | 1996年:リンゼイ・ダベンポート | 2000年:ヴィーナス・ウィリアムズ | 2004年:ジュスティーヌ・エナン・アーデン |