リヴォニア帯剣騎士団
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正式名称はリヴォニアのキリスト騎士修道会(羅: Fratres Militie Christi de Livonia,独:Schwertbrueder-Orden,英:Livonian Brothers of the Sword)。刀剣騎士修道会とも呼ばれる。ローマ・カトリック教会から公認される騎士修道会の一つである。主にバルト地方を中心に活動した。書籍ではしばしばプロイセン地方を活動域としたドイツ騎士団と混同されることがある。
存続年1202~1237年
団員は白いマントを身に纏い、教皇インノケンティウス3世より賜った赤い剣と小さな十字の紋章を左肩につける。この剣の紋章が、この騎士団の呼称につけられる“帯剣”“刀剣”の由来である。
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[編集] 設立
この騎士修道会が設立されたのは1202年。東方植民地運動により、現地の異教徒との軋轢は日に日に高まり、小競り合いも頻発していた。
そんな中、1199年にリヴォニア司教区の司教に任命されたシトー会のアルベルトは、教皇インノケンティウス3世に東方十字軍の許可を願い出る。アルベルトは十字軍兵士を集め、1200年3月にリガに移動し、十字軍の力によりその周辺の異教徒リーヴ人を服属させる。さらに翌年1201年アルベルトは自分のリヴォニア司教座の位置を以前のエクスキュルからリガに移転させる。
これらを下準備としてアルベルトは1202年リヴォニア帯剣騎士団を設立する。当初のメンバーは、上のリガまで連れてきた十字軍兵士から勧誘された。
[編集] その特徴
基本的な規則と内部構造はテンプル騎士団と同じものであったが、他の騎士修道会とは違い、騎士修道会の総長のさらに上位にリガ司教(つまり当初はアルベルト)が君臨し支配していた。
この騎士団の目的は、バルト三国辺りの異教徒達を討伐し服属させカトリックに改宗させることと、在留クリスチャンや宣教師(伝道者)を保護することである。これは、聖地イェルサレムの守護・奪回や巡礼者の保護を目的としている他の騎士修道会とは本質的に異なる。
[編集] 業績とその終焉
彼らの活動によりリヴォニアはあらかた征服され、エストニアも一進一退の攻防の末半ばほど征服に成功した。
が、征服した異教徒への過酷な搾取や、過度に残忍な戦いぶりや非道はローマでも問題になるほどであり、あげくそれを掣肘しようとした教皇特使にも狼藉を加える。悪評と孤立を深めるリヴォニア帯剣騎士団はやがて、1236年リトアニアのシャウリャイにてリトアニア軍に惨敗を喫し、翌年1237年にはドイツ騎士団に吸収合併される。
[編集] 参考文献
- 山内進 『北の十字軍-「ヨーロッパ」の北方拡大』 講談社<講談社選書メチエ>、1997年、第三章。
[編集] 関連項目
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