ルイス・サントス
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ルイス・サントス(Luis de los Santos , 1966年12月19日 - )は1997年に日本のプロ野球でプレーした野球選手。日本での登録名はルイス。
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[編集] 球歴
1996年までは台湾球界でプレー。兄弟エレファンツに所属し3年連続打率.350以上、1994年は最多安打、1995年は打点王、1996年は.372で3年連続となる首位打者に輝き、通算打率.361を記録したことから「台湾のイチロー」と呼ばれていた。前年の96年、同じく台湾球界出身のバルビーノ・ガルベスを獲得して大成功していた読売ジャイアンツが早くから目をつけ呼び寄せる。因みに前年まで巨人に在籍し、攻守に活躍したシェーン・マックはルイス獲得の意向により、契約を延長されることなく退団となった。
鳴り物入りで来日すると、長嶋茂雄監督(当時)によるじきじきの入団テストを経て巨人へ入団(西武ライオンズも入団テスト行ったが、不合格になっていた)。長嶋監督曰く、「ゴールデングラブ賞を獲っていたんです。私が言うんだから間違いありません」。しかし、台湾ではDH専門であった。
[編集] 走
足は遅く、飛び出しや暴走もみせた。
[編集] 攻
打撃練習を見た解説者たちは一様に絶賛し、口を揃えて「3割は打つ」と評していたがオープン戦、公式戦とレギュラーで出場を続けるも全く打てず、公式戦39試合に出場して残した打率は.237、その上ホームランはなんと0。結局調子は上がらず6月を待たずにファームへ降格。その後一軍に上がることはなかった。
[編集] 守
キャンプ入り直後から恐ろしく下手な守備を連発(サード)。とにかくよくボールをこぼし、弱肩で送球も不安定、ゴールデングラブを取るどころか平凡なゴロさえ捕れない有様だった。また、ダッシュが弱く、前のゴロに対応できないことから常にバントシフトの守備位置をとった結果、少しでも横の打球はすべてヒット。「目が悪いからだ」と主張したが、メガネを掛けても全く変わりはなく、高校生以下と酷評された。オープン戦、公式戦ではピッチャーの足を引っ張り、遂には同僚のエリック・ヒルマンに「お前の守備は下手すぎる。これじゃ安心して投げられない」と言われるも、「じゃあ三振に取ればいい」となぜか逆ギレ。ヒルマン、ルイス共に怒り狂い、なぜかガルベスまで交えて大喧嘩となる。当然マスコミにも叩かれたが、長嶋監督だけは「彼はやりますよ。皆さんご存じないでしょうが、私は同じサードでしたから分かります、ハイ」と弁護した。因みに公式戦では39試合で2失策だが、通常サードゴロの当たりがヒットになるケースが多かっただけである。
[編集] 成績
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 三振 | 併殺 | 失策 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | 巨人 | 39 | 114 | 27 | 0 | 14 | 15 | 3 | 2 | .237 |
[編集] その後
巨人は6月頃にルイスに代わる助っ人としてペドロ・カステヤーノを獲得し、ルイスは結局1シーズンのみで巨人を去り、翌年からは台湾球界に復帰。巨人時代の不振がまるでウソのように、首位打者と打点王の二冠に加え、信じられないことにゴールデングラブ賞も獲得する。2001年は韓国プロ野球・ヘテタイガース(途中から起亜タイガース)でプレー。