ルドルフ・カラツィオラ
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ルドルフ・カラツィオラ( Rudolf Caracciola , 1901年1月30日 - 1959年9月28日)は、戦前の1920年代から1950年代にかけて活躍したドイツのレーシングドライバーである。
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[編集] 経歴
カラツィオラの活躍は、戦前のメルセデス・ベンツ、シルバーアローの黄金時代とほぼその時期を同じくする。
当初は草レースに参加しており、1923年6月にメルセデスチームに加入。当初はダイムラー・メルセデス社ドレスデン支店のセールスマン兼ドライバーであり、1923年から1925年までの間には、ヒルクライムや各種のレースで優勝している。
カラツィオラの初のビックレースとなった1926年7月のドイツグランプリ(アヴス)において、ワークス・メルセデスではない非公式参戦のかたちでありながら、土砂降りの雨の中見事優勝を遂げ、名を上げた。 その後は、名車・メルセデス・ベンツSシリーズと共に大活躍し、各種のレース、ヒルクライムにおける勝利を重ね、1930年、1931年にはヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに輝いている。また、1931年には、外国人として初めてミッレ・ミリアに優勝するなど、文字通りのトップドライバーとなる。
[編集] 大事故
メルセデス・ベンツが財政問題のため1932年以降のレース活動を中止したため、カラツィオラは当初はアルファ・ロメオに乗ってタツィオ・ヌヴォラーリらと共に走っていたが、1933年にはルイ・シロンと共同で独立チーム「スクデリーア・CC」をつくり、レースに参戦した。しかしモナコGPプラクティスにおいて、乗っていたアルファロメオP3のブレーキが故障したことによる大事故に遭遇し、右足の大腿骨・脛骨を粉砕骨折する重傷を負う。手術の結果足の切断は免れたが、右足が事故以前より5cmも短くなるほどの後遺症が残ってしまう。この事故の後遺症と、当時のレーシングドライバーの身体的な負担の大きさを考えると、次項に述べる事故後のカラツィオラの活躍は、まさに奇跡である。
[編集] 復帰後
翌1934年、カラツィオラはレースに復帰する。同年から発効した新フォーミュラ(750㎏フォーミュラ)にあわせてメルセデス・チームが開発した新マシン・W25に乗り、8月に開催されたクラウゼンパス・ヒルクライムに優勝する。1935年には 調子を取り戻し、トリポリGP、アヴスレンネン、アイフェルレンネン、フランスGP、ベルギーGP、スイスGPとスペインGPの7大レースに優勝する大活躍を見せ、新たに始まったヨーロッパ・チャンピオン(オイローパ・マイスター)のタイトルを手にする。 その後も勝利を重ね、1937年、1938年は連続してヨーロッパ・チャンピオンに輝くなど、時代を代表するドライバーとなる。 また、雨のレースにめっぽう強く、「雨天の名手」と呼ばれていた(雨天時にもゴーグルを使用せずに操縦できる特殊な視力を持っていたともいわれる)。 そのドライビングスタイルについては、同時代の名手として知られるタツィオ・ヌヴォラーリのような激しいものではなかったが、雨天の名手と呼ばれるほど優れたコーナリングテクニックと巧みなクルマのコントロールにより、悠然とリードしてしまうものであったようである。
[編集] 引退、そして死
1939年に第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパでのレースは中止されてしまう。そのため、カラツィオラのキャリアも戦後までいったん停止することとなる。 終戦後の1946年5月には、米国のインディアナポリス500に出場すべく練習走行を行うが、走行中に頭部に何かがぶつかったことにより意識を失いクラッシュ、頭蓋骨を骨折する重傷を負うものの、無事回復する。 1952年には、レース活動を再開したメルセデスチームにみたび加わり、新型のスポーツカー・300SLに乗ってミッレミリアに出場、4位に入賞する。同年のル・マン24時間レースにも出場予定であったが、5月のベルンGP(スポーツカー)にてまたもブレーキ故障が原因と思われるクラッシュに遭遇し、左足大腿部を骨折し、2年間のリハビリを経て再び歩けるように回復するが、レースの第一線からは引退した。 引退後は、メルセデス・ベンツが各国軍隊に対して行った特別販売活動に精力的に取り組んだが、1959年9月28日、肝硬変が元で死去した。
メルセデス・ベンツチームの監督であり、戦後の偉大なチャンピオンであるファン・マヌエル・ファンジオや無冠の帝王と呼ばれたスターリング・モスを擁したこともあるアルフレート・ノイバウアは、カラツィオラを『モーターレーシング開拓期の最も偉大なレーサーにして、私の知る中でのベストドライバーである』と評している。