七尾城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
七尾城の戦い(ななおじょうのたたかい)は、天正4年(1576年)11月から天正5年(1577年)9月にかけての戦い。
目次 |
[編集] 発端
発端は天正3年(1575年)8月にさかのぼる。天下布武を目指す織田信長は、柴田勝家に命じて越前に侵攻させ、当時越前を支配していた石山本願寺の下間頼照ら1万2000人の宗徒を処刑してしまった。これに対して越後の上杉謙信は危機感と不快感を抱き、それまで結んでいた信長との同盟を破棄して翌天正4年(1576年)には顕如と和睦して同盟を結び、信長と対決することにしたのである。
そして天正4年(1576年)9月、謙信は2万を号する大軍を率いて越中に侵攻する。越中国は、もともと河内畠山氏が守護であったが、戦国時代に入ると守護代の神保氏、椎名氏らが力をつけて互いに覇権を争っていた。能登畠山氏では畠山義綱が永禄9年(1566年)に家臣団によって追放され、その後釜として擁立された畠山義慶も天正2年(1574年)2月に不慮の死を遂げた。これは一説に家臣の遊佐続光と温井景隆による暗殺とも言われている。そしてその後を継いだ弟の畠山義隆も天正4年(1576年)に死去し、遂にはその義隆の子で幼児の畠山春王丸が後釜として擁立されるなど、内紛が続いていた。このため、越中はあっけなく謙信に奪われ、次に謙信は能登に侵攻した。大義名分は、かつて畠山氏から人質として差し出されていた上条政繁こと畠山義則を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するというものである。
[編集] 第一次七尾城の戦い
これに対して、畠山氏では筆頭重臣である長続連の指導の下、籠城戦が決定する。続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。さらに続連は謙信の背後を撹乱するために、笠師村や土川村、長浦村などの領民に対して一揆を起こすように扇動したのである。ところが、謙信もかつて一向一揆に悩まされた経験から一揆に関する情報網は強く、これらを全て返り討ちにした上で七尾城を攻めた。しかし、七尾城は名君・畠山義総によって築かれた堅城で縄張りも広く、春日山城に匹敵する堅城だったため、さすがの謙信も攻めあぐねた。そこで謙信は、七尾城を孤立させるためにその支城を落としていったのである。
石川県鹿島郡中島町谷内にある熊木城。珠洲市正院町川尻の黒滝城をはじめ、羽咋郡富来町八幡の富来城、羽咋郡富来町の城ヶ根山城、羽咋市柳田町にある粟生七郎の粟生城、鳳至郡柳田村国光にある牧野上総介の米山城などが、あっという間に落とされて七尾城は孤立してしまった。しかしそれでも、堅城である七尾城は落ちそうにない。
そして越年した天正5年(1577年)3月、小田原城の北条氏政が、謙信の領地である上野国に大軍を率いて侵攻しようとしたため、謙信は帰国することを余儀なくされたのである。このとき、謙信は熊木城に三宝寺平四郎と斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を、黒滝城に長景連を、穴水城に長沢光国と白小田善兵衛を、甲山城に轡田肥後と平子和泉を、富来城に藍浦長門を、石動山に上条織部と畠山将監をそれぞれ配置した上で帰国したのである。
[編集] 畠山軍の反撃
謙信が越後に帰国すると、七尾城にあった畠山軍は即座に反撃を開始した。熊木城には畠山の家臣・甲斐親家の謀略で誘いに乗った斉藤帯刀が裏切りを起こして落城し、七杉小伝次は自害し、三宝寺平四郎と内藤久弥は打ち首となった。富来城にも畠山の家臣・杉原和泉を総大将とした軍が押し寄せ、藍浦長門は捕らえられて処刑された。また、続連自身も自らの居城である穴水城を奪還すべく出陣するなど、畠山軍の攻勢は凄まじかった。
ところが、閏7月。北条軍をあっという間に破った謙信は、再び大軍を率いて能登に攻め寄せてきたのである。驚いた続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して全兵力を七尾城に籠もらせた。さらにこのとき、続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせたのである。このため、畠山側の兵力は兵士と領民、合わせて1万5000人近くの大人数となった。数なら上杉軍に決して劣らない人数だったのである。
ちなみに、このように七尾城で慌てて再びの籠城戦が準備されていたとき、穴水城の長沢光国と甲山城の轡田肥後が七尾に攻め寄せてきたが、逆に敗退している。
[編集] 第二次七尾城の戦い
続連は、兵力を集めて堅城である七尾城に立て籠もれば、謙信を追い返せると考えていた。しかし1万5000人も集めたため、これが逆に仇となった。これだけの人数の糞尿を処理するトイレが七尾城内部には無く、糞尿を処理しきれなくなって七尾城内部のあちこちで垂れ流し状態となったのである。しかも、季節は夏。このような不衛生な状況で遂に城内で疫病が起こり、畠山軍の兵士たちは戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだのである。おまけにこの中の犠牲者に、幼君の畠山春王丸までもがいたのである。
窮した続連は、子の長連龍を使者として安土城の織田信長のもとに派遣し、援軍を要請すると共に、小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすように扇動した。ところが、一揆はまたもや謙信によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となった。
このような中で、かねてから親謙信派であった遊佐続光は、仲間の温井景隆や三宅長盛(景隆の弟)らと結託して謙信に内応しようとした。もともと彼らは親信長派として実権を自分たちから奪った続連を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからである。そして9月15日、15夜の月の日に遊佐続光らは城内で反乱を起こした。勿論、城門を開けて上杉軍を招き入れた上のことである。この反乱で続連とその子・長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族はことごとく殺されてしまった。長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である菊末丸のみだったのである。こうして七尾城は謙信の手に落ち、能登も完全に謙信の支配下に入ったのである。
[編集] 戦いの影響
この七尾城の戦いは、謙信にとっては重要な戦いだったようである。謙信はこのとき、有名な『十三夜』の詩を作っている。これを見ても、謙信の能登支配に対する野望と、そして能登を支配することによる信長への牽制への意味がうかがえるのである。
一方、柴田勝家を総大将とした織田の援軍は七尾城落城に間に合わず、9月23日手取川の戦いで上杉軍に敗北を喫し、救援に失敗している。
この後、七尾城は親上杉勢力がおさえることとなるが、謙信死後は能登国内の反対勢力や飛騨経由で越中に攻めこんだ織田勢力に圧迫され、やがて織田勢力のものとなる。