三村家親
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三村 家親(みむら いえちか、永正14年(1517年) - 永禄9年2月5日(1566年2月24日))は、日本の備中の戦国大名。三村宗親の子。盛親(時親)の孫。備中松山城主。
備中においては守護家である細川氏の威光が早くから衰えており、その中において初めは庄氏と連携しつつ、のちには争いながら勢力拡張を図った。庄氏との勢力争いに行き詰まり、尼子氏方だらけの備中国人としてはおそらく初めて毛利氏を頼った。
毛利元就は家親をかなり評価していたらしく、三村氏からの使者に「備中一国はこれで毛利のものとなったも同然である」という趣旨の言葉を発して喜んだという。毛利氏と手を結んで以降、備中における尼子氏の勢力を次々と駆逐し、備中をほぼ統一。拠点を備中成羽の鶴首城から備中松山城に移し(毛利元就書状)、鶴首城を重臣三村親成に任せる。この間、備中守護代家である庄・石川・上野などの諸氏と積極的な縁戚関係を構築したが、庄氏だけはその一族を完全に取り込めず、遺恨となる。
さらに勢力を拡大すべく、備前や美作に侵攻し、勇猛をもって宇喜多直家を打ち破るが、東美作の後藤勝基が守る三星城を攻めているときに、後藤家の援軍として宇喜多が進軍してきたので、やむなく撤退した。1566年、美作の興善寺に滞在して重臣一同と評議中、直家の命を受けた遠藤又次郎、喜三郎兄弟に狙撃されて死亡した。当時としては珍しい鉄砲による暗殺である。
なお、正室はお互いに小笠原氏分流を称していた阿波三好氏の女で、三村元親や小説『鬼哭の城』の主人公である上田實親の母にあたると言われている。