三浦朱門
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三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年(大正15年)1月12日 - )は、日本の作家、第7代文化庁長官。教育課程審議会会長を歴任。東京都出身。東京府立第二中学校(現在の東京都立立川高等学校)から旧制高知高等学校(現在の高知大学)を経て、東京大学文学部言語学科卒業。2000年に日本芸術院の院長に選出され、また2005年3月まで日活芸術学院の学院長を務めた。妻は作家の曽野綾子で二人ともカトリック信徒として知られる。
目次 |
[編集] 略歴
- 1967年 第14回新潮文学賞受賞(『箱庭』)
- 1970年 聖シルベスト勲章受賞
- 1983年 芸術選奨文部大臣賞受賞(『武蔵野インディアン』)
- 1985年4月 文化庁長官に就任(~1986年8月)
- 1999年 第14回産経正論大賞受賞
- 同年10月 文化功労者受賞
- 2006年6月 「日本教育再生機構」に発起人参加
[編集] 著書
- 『武蔵野ものがたり』
- 『日本人の心と家』
- 『犠牲』
- 『にわか長官の510日』
[編集] 発言・逸話
ペンネームの「朱門」は、母校である東京大学の赤門とキリスト教の聖人シモン・ペテロにちなんでいる。しかし本名同じ。
2000年7月、ジャーナリストの斎藤貴男に、新自由主義的な発想から「ゆとり教育」の本旨は“100人に2~3人でもいい、必ずいる筈”のエリートを見つけ伸ばす為の「選民教育」である事を明言(「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っててくれればいい」「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば不幸になる」など)、物議を醸す。[1]教育課程審議会においてゆとり教育について「私は今まで数学が私の人生に役立ったことは無く、大多数の国民もそうだろう。」と発言。ゆとり教育を推進する当時の文部事務次官の意向に沿った発言を行ない、以後のゆとり教育を加速させた。彼らはその後の理科系大学生の著しい学力低下の責任を全く表明していない。
2004年2月、『文藝春秋』3月号で自衛隊のイラク派遣の是非を問うアンケートに、「拉致問題すら当事者として解決する力のない日本にとって、対米追従以外の選択肢がありえない」「もし戦死者が出れば、それは憲法改正のための尊い犠牲なのだと考えたい」と回答した。暗に戦死を期待した回答であるが、さしたる問題にはならなかった。他にも「強姦出来るくらいでなければ日本男児たる資格無し」と答えるなど、何かと過激な言動が多い。
『全「歴史教科書」を徹底検証する』(小学館)という日本の歴史教科書を第三者的視点から比較する体裁の書籍を執筆し、『新しい歴史教科書』(扶桑社)を高く評価していたが、同時に扶桑社のサイトで同書を推薦する販促のコメントを寄せていた(現在は削除)。
「食前食後に飯を食う」と言われるほどの健啖家でもあった。アメリカ留学していた際、知人にディナーに招待されていたことを忘れてレストランで腹一杯食べておきながら、その後訪れた招待先ではきちんとデザートまでフルコースを平らげたそうである(福田宏年「時刻表地図から消えた町」(集英社文庫)より)。
「中高生時代は手のつけられないほどの不良であった」と自称している。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ^ 斎藤貴男『機会不平等』文芸春秋 2000年 (http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/2001/588/book.htm)