三浦誠次
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三浦 誠次(みうら のぶつぐ、天明2年5月15日(1782年6月25日) - 天保2年2月2日(1831年3月15日))は、美作勝山藩の第5代藩主。父は第3代藩主・三浦前次。母は稲垣昭央の娘。正室は鍋島斉直の養女(鍋島治茂の娘)。子に峻次、義次、弘次。官位は従五位下、兵庫頭。
天明2年(1782年)5月15日生まれ。幼名は文之助。文化14年(1817年)11月15日、先代藩主・三浦毘次の養嗣子となる。文政13年(1830年)7月6日、毘次の隠居により家督を継ぎ、藩主となった。しかし在位1年足らずの天保2年(1831年)2月2日、50歳で死去した。後を子の三浦峻次が継いだ。法号:常楽院殿前志州刺吏実誉至真誠山大居士。墓所:岡山県真庭市勝山の安養寺。
渡辺玄対に画を学んだ経緯から画の才能に優れ、「虎丘」と号していた。
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